重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探究メモなど。

思考整理メモ:人工知能ブームのあとにくるもの

祝日の昨日、トークイベントに行ってきた。またも人工知能の話だ。

ICC ONLINE | オープン・サロン スペシャル・トーク「シンギュラリティ:人工知能から超知能へ」

最近すっかり「人工知能」という言葉に敏感になっていて、読む本もブログに書くのも、気づくとそればかりになる。かといって前から人工知能の話題をフォローしてきたわけではなくて、にわか勉強に過ぎない。いつからこうなったんだろう…。でも、自分だけでなく、世の中全体がそうなっている気がする。4、5年前は人工知能について考えていたのは専門家だけだったのに、今ではみんながそれについて話している。この状況はどうして生じたのか。「学問と社会との関係」などについて関心がある身としては、この人工知能ブームを正確に捉えたいと思っている。

昨日のトーク自体もとても面白かったのだが、ここではそれについてではなく、人工知能への関心の高まりについて感じることを雑多に書いてみることにする。

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まず、そもそも人工知能ブームは実際に起こっているんだろうか。自分の体感だけでは頼りないので、少しでも客観的な指標がほしい。そこで、安直かもしれないけど、書籍の発行数を調べてみた。こうなった。

 

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タイトルに「人工知能」が含まれているものだけなので、関連本を完全に捕捉できているわけではない。また、書籍の発行点数が必ずしもブームと強く相関しているとは言えないかもしれない。間違いなくタイムラグはあるだろう。それでも、2015年の突出ぶりから、何かが起こっていることは見て取れる。

ちなみに、2015年刊行の21冊は以下の通り。

官庁の報告書や雑誌のムックなどが引っかかってきていたり、一見関係ない本も混じっているが、まあ、だいたいこんな感じだったなというラインナップだ。グラフを見てむしろ驚きだったのは、2014年の発行数がその前10年の平均とあまり変わらないこと、2013年に至っては2冊しかないことだった。忘れがちだが、「人工知能」が流行りだしたのはほんの2,3年前のことだったのだ。ちなみに、2000年代は90年代に比べても点数が落ち込んでいて、いわゆる「冬の時代」の末期にあったのだなあ、ということも分かったりする。

あるブームを感知した編集者が書籍を企画して、それが発行に至るまでには半年から2年間かかる。とすると、人工知能ブームの実体は2015年の「人工知能本ラッシュ」の1,2年前から存在していたと考えられる。

人工知能の盛り上げりの原因としてはディープラーニングの成功が挙げられることが多い。私見では、それに加えてビジネスと結びついたことが大きいと思う。2015年の人工知能本のリストを見てみると、純粋な学術書というよりも、産業やビジネスと結びついた本が多い。つまり、「人工知能」は、「Web2.0」とか「ビッグデータ」に連なるIT系ビジネス用語として流行った面があるのは間違いない。

一方で、他のビジネスのバズワードと違い、人工知能には学問としての歴史があった。あと、人々の想像力に訴える力も桁違いだった。だから、人工知能の議論はどんどん膨らんでいく。ここ2、3年で起きたのは、こんなことではないだろうか:

 ディープラーニング成功などにより、実用性向上

 → ビジネスへ取り入れる企業が増える

 → 研究が活発化し、アカデミアも盛り上がる

 → シンギュラリティ論などの未来予測に注目が集まる

 → 一般の人へ認知が高まる

 → ビジネスへ取り入れる企業がますます増える

 → 以下同

ビジネス的な動機と学術的関心が同床異夢で互いを促進しあった。もちろん、ここには本当に起こっていること(ディープラーニングの精度向上など)と、期待が水増しされていること(シンギュラリティ論など)が同居しているのだが、両者が混ぜこぜになってポジティブフィードバックがかかった。さらに、そうこうしてしているうちに、人文・社会科学方面からの議論も呼んだ。たとえば『現代思想』2015年12月号。 

現代思想 2015年12月号 特集=人工知能 -ポスト・シンギュラリティ-

現代思想 2015年12月号 特集=人工知能 -ポスト・シンギュラリティ-

 

これまでとくにテクノロジーに関心・関係のなかった人々の注意を引いているのも今回のブームの特徴で、代表的な議論に次の二つの議論がある。

  • 人工知能が自律的に動き、人間に歯向かうようになったらどうするのか
  • 人工知能によって知的労働が代替されることの含意(ミクロには、自分が失業するのではないかというホワイトカラーの不安。マクロには、人工知能を使える人と使えない人の間の格差が広がるのではないかという懸念。)

少し考えてみると、この二つの問題について(10年後でも10年前でもなく)「いま」心配する必然性はあんまりないことに気づく。そこが興味深いところだ。人工知能の話題が巷に広まり得たのには、ビジネスに使えるという側面と人工知能の研究の歴史の長さという二つのファクターがあって、そこにディープラーニングの成功がトリガーとなって起爆した、というのが私の見立てだ。

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では、これからはどうなるんだろう? ブームは終わるのか。終わるとしたらどのように終わるのか。そして次は何がくるのか。

どんな予測も当てずっぽうになってしまうが、あえて予想してみる。

まず、多くの情報系の研究者が言っているように、人工知能ブームは沈静化すると思う。それは、人工知能にまつわる問題が消えてなくなるというよりも、それが当たり前になるために語られなくなるという形で。技術的失業の問題は深刻だが、それも何とか乗り越えていく。当然「シンギュラリティ」も来ず、これについては言葉自体が忘れられていく。(ただし「人工意識」の研究などが想像以上に進んでいくのなら話は別だが、自我とか意識を工学的に研究できる段階にあるとは私にはどうしても思えない。)

その代わり、別のもっと大きなテーマがやってくる。それは、人間の身体や脳に介入する諸技術だ。そこでのバズワードは「遺伝子工学」と「神経工学」になる。それらが、ビジネスレベルで実現性を帯びて、「生物学」や「医療」の範疇を超え始めたとき、大きなビジネスチャンスと学問的可能性が出現する。人文・社会科学的議論も噴出し、次のようなことが問題になる。

  • 人間はどこまで自分の脳や体をいじっていいのか
  • 自分の「欲望」や「動機」そのものをどこまで改変すべきか
  • 心身をエンハンスできる人とできない人の格差の問題
  • 技術を使えばいくらでも延命できるとき、いつ死ねばいいのか

遺伝子工学」と「神経工学」技術に伴う危険の大きさと判断の難しさは、人工知能の比ではないだろう。

……根拠はないのだが、こういう未来がすぐそこにあるようにしてならない。(そして、その混乱のさなかに指針となるのは、やっぱり本であるはずだ。理工書編集者として、そのときに意味のある仕事ができるように、心の準備だけはしておきたい。)