重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探究メモなど。

読書メモ:工学部ヒラノ教授のはじまりの場所(今野浩 著)

 

「出身高校は?」「都立日比谷高校です。」「あの日比谷ですか!」「そうです、『昔は』すごかった日比谷です」…。母校が話題になると、だいたいここまでがお決まりのやりとりとなる。ワン・オブ・ゼムの公立校になって久しい日比谷高校は、その昔は日本随一のエリート校として知られていた。

工学部教授の生態を赤裸々に綴り、人気を博した「工学部ヒラノ教授」シリーズ。異例のペースで続巻が出まくった結果、ヒラノ教授(=著者)の大学生時代から名誉教授の現在までが(ほぼ)カバーしつくされ、本作にいたってとうとう中学・高校が舞台となった。(twitterで誰かが「島耕作化している!」と言っていた。)そして、著者が通った高校こそ、あの黄金時代の「日比谷」なのだ。

大学教授の父、超学歴重視の母(「東大以外は大学ではない」が決め台詞)、大秀才の兄、という家庭環境のなかで1950年代の東京で10代を過ごした著者が、学大付属世田谷中というこれまたエリート中学校から(紆余曲折ありつつも)日比谷高に進学し、東大に合格するまでが描かれる。60年前のことを思い出しながら書いているとは信じられないほどディテール豊かなのだが、あとがきによれば「脚色」は5%未満だそうだ。

40年以上の時間の隔たりがあるにもかかわらず、自分の中学・高校時代を思い出させられる部分も多かった。魅力的なクラスメートに近づきたいという願い。勉強へのモチベ―ションの浮き沈み。運動部に入るも仲間ほど情熱を傾けていないことへの後ろめたさ。長らく忘れていた気持ちが蘇ってきた。

でも、やっぱり、1950年代の彼らの青春時代と、2000年代の僕らのそれは全然違っていた。

まず、当時の日比谷高(あるいは学大付属中)に集まっているタレントの濃密なこと。著者が中高時代につるんでいた友人たちは、大学教授、大企業の社長、著名エコノミスト等々として大成した人物ばかりだそうだ。

そういう振り切れたポテンシャルの生徒たちが集まると、彼らは何をするのか。たとえば、中学時代の著者とその親友はこんなことを話していたという。

では二人の少年は、どのようなことを語り合っていたのだろうか。数学・理科・英語のこと。日本の将来のこと。アメリカのこと。女子学生の品定め。栃錦 vs 若乃花論争。ベートーヴェン vs チャイコフスキージョージ・セル vs シャルル・ミュンシュ。ユーディ・メニューイン vs ナタン・ミルシュタインなどの音楽談義。大山康晴 vs 升田幸三の将棋哲学。セ・リーグ vs パ・リーグの野球論争。藪伊豆 vs 更科のそば比較。また力道山 vs シャープ兄弟のプロレス対決についても、熱く語り合ったはずだ。(p.63)

固有名詞を今のものに置き換えれば、中学生の会話内容としてはわりと普通?かもしれない。でも、このなかに「数学・理科・英語のこと」と「日本の将来のこと」が含まれているのに注目したい。スポーツや芸能についておしゃべりするのと同じ熱量で、そうしたことを語り合う仲間がいる中学生が、21世紀の日本にどれくらいいるか…。

自分のあの苦い10代、勉強はまずもって「効率よくこなす」べきものであり、勉強ができることは優等生的従順さの証明にしかならないという価値観のもと、勉強を頑張る同級生を牽制しあうような同調圧力を感じながら10代を送った自分にとっては、当たり前のように東大(とその先)をめがけて切磋琢磨する著者たちがまぶしすぎた。

…という愚痴は置いておいて。

昭和初期を舞台とした青春小説を読むようなつもりでも楽しめるし、今の日本をつくってきたエリートたち(名誉教授、名誉会長、政治家OB世代の人々)がどんな土壌から出てきたのかを知るための実録としても貴重な1冊。ぜひご一読を。