どんな技術革新の「ブーム」にも、それに油を注ぐ(あおる)人と、水を掛けて火消しに回る人がいる。あおるにも、プラスの面を強調する人と、マイナス面を強調する人がいる。とするなら、あるブームに対する態度は、大雑把に次の三つに分けられそうだ。
- 可能性を喧伝する人(「すごい革命! 世界が変わる! ビジネスの大チャンスだ!」)
- 警鐘を鳴らす人(「取り返しのつかないことなる!」)
- 期待感・危機感の両方を諌める人(「そんなことは起こらないよ…」)
今回の「人工知能ブーム」の関連本をみていると、――もちろんどの本にも三つの要素が少しずつは含まれているとはいえ――これまでは前者二つのスタンスで書かれたものが多かったように思う。けどここにきてようやく、第3のスタンスの視点の本が出るようになってきた。本書も、そうした一冊だといえる。
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1970年代からAI研究に関わり、最近は情報技術の社会への影響を調べてきた西垣通氏による本書では、ビッグデータとAI技術の可能性と危険性、これからの研究や利用がどうあるべきかについての氏の見解が述べられている。数十年間この分野を見てきた著者ならではのAI研究史のまとめ方や、独自の知能観・生命観――とくに「ネオ・サイバネティクス」と呼ばれる考え方など――は、勉強になる部分が多かった。
その反面、個人的にはわりとモヤモヤ感が残る本だった。
本全体を通した著者の主張はこんなかんじだ。ビッグデータやAIは確かにすごいし、人々の暮らしを一変させるポテンシャルはある。しかし、みんな期待しすぎだし、その可能性についての「誤解」が甚だしい。どんなに機械が複雑化・高度化しても、人間の知能と質的に同じ処理はできない。たとえば、どんなにSiriの対話機能が進歩しても、それは「擬似的な」コミュニケーションでしかない。(ディープラーニングのような)AI技術が発展すれば人間並の知能が実現するというのは、誤解にもとづく実現不可能な期待である――。
この結論自体は、僕も共感できる。だけど、その「理由」をもう少し書いて欲しかった。著者は生物と機械には超えられない壁があることを大前提にしている。本書の言葉で言えば、生命は「自律的閉鎖系」であるのに対し、機械はどこまでいっても「他律的開放系」であるから。
でも、機械が「自律性」を獲得できない理由はなんだろう? 生命が科学によって他律系として扱えるようにならないことの保証はあるのか? 著者にとっては自明すぎることなのかもしれない。でも、ここを書いてくれていないために、「誤解している」と批判される人たちには届かない本になってしまっている気がした。そういう人に向けて書く気はまったくない、と言われてしまったらそれまでなのだけど……。
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もう一つだけ。著者が本書を通して、IT研究者・技術者自身が、人文学や社会科学の見識を持つことの重要性を主張している。「知能とは何か」とか「技術を通じてどのような社会を実現すべきか」について、研究者個々人がちゃんと考えなければならない。たとえば、第2次AIブーム期の「第5世代コンピュータ計画」が「失敗」したのは、計画を指導した人々のなかに「知能とは何か」についてのビジョンがなかったからである。また、別の箇所では、これからの情報教育では、文系の視点を含めた「統合的な情報学」を教えることが重要だと述べている。
けれど、具体的にどんなビジョンがあれば「第5世代コンピュータ」は「失敗」を免れたのかや、具体的にどんな文系の情報学を教育をすれば日本のIT分野は良い方向に向かうのか。そこが大事だと思うのだが、少なくとも僕は本書からは答えが得られなかった。