重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:知るということ――認識学序説 渡辺慧(著)

 

知るということ 認識学序説 (ちくま学芸文庫)

知るということ 認識学序説 (ちくま学芸文庫)

 

5年前にちくま学芸文庫から出されたこの本。

院生のときに読んでいたのだが、ふと思い立って再読してみた。

こんなに面白い本だったっけ、と驚いてしまった。

書かれたのはちょうど30年前の1986年。著者が亡くなったのが1993年だから、晩年に書かれた本ということになる。

著者自身の生涯にわたる業績をいろいろと紹介しながら、それを一つの構想にまとめている。それは「人が何かを「知る」というのはどういうことか?」についての学問(=「認識学」)を打ち立てるというものだ。

話題は、分析哲学、論理学、物理学、情報理論へと多岐にわたる。分析哲学を中心とする「哲学」と、人工知能研究を中心とする「エンジニアリング」と、物理学を中心とする「科学」とが、著者の中ですべて総合されて一つの視点となっていて感動する。

「知能とはなにか」は、いままさに人工知能の分野で熱く議論されている印象があるが、30年前に、ここまで本質に肉薄していた(ように少なくとも私には思える)渡辺氏のような人がいたことに驚く。いや、1世代以上前の研究者のなかにはこういう碩学たちが相当数いて、主張や業績が単に忘れられている側面もあるのだ思う。もったいない。

この本の中身を十分には咀嚼できていないが、次のような著者の物事の見方にはグっときた。

  • 「認識」という心の働きを、機械学習の言葉で語ろうとしていること。
  • 「論理」を人間の知的能力の出発点をとせずに、むしろ帰納的な学習能力によって獲得されるものとして論理を捉えようとしていこと。
  • 「ものがある」という命題の中にすでに、認知が入っていることに目を向けさせようとしていること。
  • 人間の認識を広義の「パターン認識」であるとみなし、たとえば「現象のなかから法則を見つける」という科学の営みも、その一事例に含めて論じていること。
  • 物理学の記述においても、実は科学者の「認識」が大きく関与していることに注意を向けさせようとしていること。
  • 「学習」のプロセスを、「エントロピーの減少」で定量的に捉えようとしていること。

など(これら同士の関係を、うまく説明できるまで理解できたら嬉しいのけど、いまの自分にはその力量はない)。

***

 著者は、この本が書かれた当時に盛り上がっていた「第5世代コンピュータ」の意義には懐疑的で、むしろ(そうははっきり書いていないのだが)ニューラルネットに可能性を見ていた印象を受ける。いま著者が生きていたら、今日のニューラルネット隆盛ぶりを見てどう評価するだろうか。ニューラルネットは、渡辺先生の「認識学」の構想の中でどのくらいの重みを持ちうるものなのか、「ニューラルネット」が人間の理解のモデルとして不完全なものだとしたらなぜかなど、聞いてみたい気がする。