冒頭数ページを読んで、「あれ?」と思った。
真面目な評論の本を手に取ったつもりだったのに、エッセイのような文章で始まっている。著者が国際的な小説家たちの集まりに参加して、どんな人と出会ったとか、そんな話。予想外の内容だけど、これはこれで読ませる文章で面白い。そう思いながら読んでいくと、著者のエピソードはやがて「英語以外の言葉で小説を書くとはどういうことなのか?」という問題意識に行き着く。エッセイは長い前振りだったのだ。
そうか、この著者は小説家だ、と気づく。
日本語で文学している当事者として、「日本語は亡びるのか」というテーマに挑もうとしているのだ。残りの数百ページで何を言おうとしているのか、期待が膨らんだ。
第2章から本論に入る。想像を上回る壮大な論考だった。
言語には序列があるという現実について。一つのローカルな言語が、グローバルな言語の仲間入りをするダイナミクス。その一事例としての日本語。日本語が「メジャーな言語」になるに至った経緯と、それを成し遂げた人々。学問と文学と言語の関係。英語の台頭。21世紀に入って、英語の力がますます強まっていること。日本語を守るためにすべきこと。
たくさんの線を引きながら、一気に読んでしまった。
***
「日本語が亡びるとき」とは衝撃なタイトルだ。
「亡びる」というのは、もちろん日本語話者がいなくなるという意味でもないし、日本語の本がなくなるという意味でもない。日本人はまだ1億人以上いる。大型書店に行けば分かるように、和書の発行数は減っていない。
では日本語の何が危機だというのか。
それは「読まれるべきもの」を日本語で書く人がいなくなるということだと著者は言う。読まれるべきもの、それは、人が「真理」を求めて読むような書物のことだ。もちろん、誰もがそのような目的で書物を読むわけではない。著者が念頭においているのは、一部の「叡智を求める人々」だ。「真理」? 「叡智を求める人」? いまどき古くさい考え方だと思う人もいるかもしれない。でも、僕は著者に共感できる。いるよ、叡智を求める人。叡智を求めて本を読む人。書く人。そういう人々が、真面目に日本語で書いたり読んだりしなくなり始めている。思い当たる節はありそうだ。僕は、英米で終身職を得て日本を離れた何名かの超一流研究者が思い浮かんだ(もっとも、その中には海外から「日本語で書いてくれている」有り難い先生もいるが)。
著者の言うには、学問と言語は次のように結びついている。学問をすることは、誰かに向かって「書く」ということである。なるべく多くの人に言葉を届けるために、学問の言葉には「叡智を求める人々」の間でもっとも多く流通している言語が採用される。そのような言語を「普遍語」と著者は呼んでいる。昔のラテン語など、今の英語がそれにあたる。
p.164 学問で〈普遍語〉を使うのは、便宜上のためや、慣習や法に従うためではない。学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分の書いたことが〈真理〉であるかどうか、〈読まれるべき言葉〉であるかどうかを問うことによって、人類の叡智を蓄積するものだからである。くり返すが、学問とは〈読まれるべき言葉〉の連鎖にほかならず、その本質において、〈普遍語〉でなされてあたりまえなのである。
とはいっても、日本語で学問ができている事実がある(そうじゃなかったら、日本語の学術書を作るという僕の仕事はないわけで)。なぜか。それは、日本語が普遍語(英語)と翻訳可能な言語だからだ。しかし始めからそうだったのではない。福沢諭吉など明治初期の人々が、日本語をレベルアップさせた。西洋の言葉と相互に翻訳可能な言葉に、つまり、日本語を「国語」に格上げをするための、ものすごい努力をした。本書の2章分はこうした近代の日本語の進化に割かれている。
でも、残念ながら、あくまで普遍語でするのが、学問の本来の姿だと著者は言う。
p.183 〈自分たちの言葉〉で学問ができるという思い込みは、実は、長い人類の歴史を振り返えれば、火花のようにはかない思い込みでしかなかった
明治時代のような、日本語を開拓していく知識人たちはもういない。学問がますます英語一辺倒になっていくのも仕方のないことなのかもしれない。
一方で、文学というものがある。文学は学問と違って、個別の言語で書かれることに意義がある(著者の考えでは「文学の翻訳」は本質的に不可能)。明治時代に、日本語が学問の言葉に格上げしたことと同時に、日本近代文学というものが誕生した。著者は、夏目漱石・森鴎外・樋口一葉らのつくった近代文学を奇跡と呼んでいる。そして、この時代の文学者への個人的な憧憬を隠さない(なにせ著者のデビュー作が『続明暗』なのだ)。
ところが、その文学も世界規模で「亡び」つつある。
著者はいくつかの理由をあげている。文学が、その他の表現方法のなかの一つになってしまったこと。「人間とはなにか」など、文学にしか答えられなかった領域の「真理」が、脳科学や心理学などの扱う問題になってきたこと。そうした要因が重なって、日本文学に限らず、文学というものも縮小している。
マイナー言語の最後の砦となる文学。その文学も衰退するとなれば、日本語はますます「叡智」のための言語ではなくなっていく。そうした中、僕らはどうすれば良いのか。著者は言う。
p.405 もし、日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の証しであるように。
つまり、「自分の言葉がなくなってしまうということを知っている」ことに、プラスの意味を見いだそうと言うのだ。弱者の痛みが分かることが弱者の強みである、というような論理。「そこまで言いますか」という感じだが、正しい現状認識なのだろう。
(付記:こう書くと、悲観的な話ばかりのようだが、本書は終わっている訳ではなく、最終章は「日本語を守るためにどうすれば良いか」の提言に当てられている。)
***
熱い本だった。
思ってもみなかったことが書かれていた。
まず、言葉に「序列」があるということ。そして日本語が「亡びつつある」ということ。学問は「書くこと・読むこと」に他ならないという学問観。
それぞれに異論がありうるかもしれないが、僕には腑に落ちた。
そして、もっと「国語」をちゃんとやっておけば良かったとつくづく思った。思えば、小・中・高の「国語」の授業は面白いと思ったことがなかった。いま現役の高校生などで国語がつまらないという人がいたら、ぜひ本書を読んでみてほしいと思う。
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その後、本書でも言及されている著者の小説を読んでみた。
私小説―from left to right (ちくま文庫)
- 作者: 水村美苗
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/03/10
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英語と日本語が入り交じるバイリンガル小説。こちらも未体験の面白さだった。
英語・フランス語・日本語を使うことができた著者が、最終的に日本語で小説を書くことを決意するまでの心中が書かれている。『日本語が亡びるとき』を書くに至った背景を知ることもできて、興味深かった。