重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:漱石のこころ(赤木昭夫 著)

 

漱石のこころ――その哲学と文学 (岩波新書)
 

夏目漱石ほど、作品が読まれた日本人の小説家はいない。漱石の作品が好きな人は多いが、その理由は人それぞれだと思う。真に迫る心理描写でハラハラしたい、行間に感じられる明治のゆったりとした雰囲気に浸りたい、一流の文体やユーモアを味わいたい、などだろうか。読み方がいろいろあるということが、むしろ、今でも読まれ続けている理由なのかもしれない。以前読んだ『漱石と三人の読者』(石原千秋著、講談社現代新書)という本のなかで、漱石は複数の層の読者を想定して異なるメッセージを込めていた、ということが書かれていて、そうなのかと驚いた記憶がある。

本書も、また新しい漱石の読み方を提示する。著者は、大胆にも、これまで百年間は漱石は正しく読まれてこなかった、という。文芸評論の歴史に対するなんとも挑戦的な態度だ。そこまで言えるものなのかという気もするが、ともかくそういう気概で書かれている。

著者が漱石の誤った読み方の筆頭にあげるのが、漱石の文学を「未完の『明暗』へと至る「則天去私」の道程だったと意義づけ」る解釈だ(p.212)。則天去私は漱石の日記に登場する言葉だが、彼の死後直後まもない時期にはとくに、漱石の文学は則天去私、つまり我を離れる境地を目指したものだった、という解釈が広まったらしい(中学の部活の顧問が夏目漱石に傾倒されており、その先生が卒業アルバムの「卒業生へのメッセージ」の欄に書いたのが「則天去私」の四字だったのを思い出した)。

しかし著者によれば、「則天去私」は漱石が作文のティップスとして創作した概念にすぎないのであって、彼の文学の到達点でもなんでもない。漱石が作品でやろうとしていたのは、明治という時代を文学で捉えること、そしてその時代の暗部を文学を通して明らかにすることだった。そうした論を、主に『坊っちゃん』と『こころ』を取り上げて展開していく。特徴的なのは、当時の経済状況(空前の好景気だった)や、政治的な状況(固定したメンバーによる腐敗が進んでいた)について、経済指標の数値や出来事の年月日を挙げて考察している点で、そういう細かいデータをもとに「漱石はこういう時代状況のなかで、こう考えたに違いない」ということを読み解いていく。考えてみれば、漱石は同時代を生きている人々に向けて作品を発信していたのだから、百年後の僕らにはわからないメッセージも含まれているはずだ。だから、こういう作業が必要なのも頷ける。

けれど僕にとっての本書の一番の見どころは、何といっても第3章:「ロンドンでの構想」だった。ここでは1章を割いて、漱石のイギリス留学のことが扱われている。小説を書き始める前に訪れた異国の地で、彼は何を考えたか。まず、知らなかったのが、漱石がデビュー作を書く以前に、文学研究者として、自分なりの「文学論」を構築していた、ということだった。それを大成できたのが、本書によればロンドン滞在時だった。

カギとなる人物として描かれているのが、ロンドンで漱石と交流があった池田菊苗という化学者だ。菊苗との交流の様子を示す資料の検証を通して、著者はある仮説を導く。それは、物質の性質を決めるエッセンスとして分子や原子というものの存在を想定する(まだ原子論は証明されていなかった)物理や化学に感化され、漱石は文学のエッセンスについての自身の理論を作ったのではないか、という仮説だ。 池田菊苗がうま味成分であるグルタミン酸ナトリウムの発見者であることにかけて、

菊苗の発明が「味の素」だから、たとえるならば、漱石は文学の素を発明したことになる。(p.80)

などと、ちょっとうまいことを言っている。

文学の素、つまり、漱石が求めていた「文学とは何なのか」に対する答えを、漱石社会学や心理学の勉強を通して得ることができ、それがのちの、著者の言葉で言えば「明治の時代精神」を捉えた作品を生み出すバックボーンになった。

どこまでこの読みに信憑性があるかはわからない。でも、この池田菊苗と漱石の文学論に関する著者の仮説には、鳥肌が立った。こういう頭の使い方、つまり異なる分野が、歴史的にどういう交流を経て新しい理論なり概念を生み出してきたかをたどるアプローチを、著者は「学説史」(history of ideas)とよぶ。文学と科学を行き来できる碩学たちが跋扈していた明治時代は、まさに「学説史」が面白い時代なのだろうし、なかでも漱石は、恰好の題材なのかもしれない。

本書を読めば、とくに科学に親しみのある理系の人にとって、夏目漱石という人の重要度が高まるに違いない。