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読書メモなど

読書メモ:工学部ヒラノ教授の介護日誌

理系の研究者が書く本というのは、科学現象の原理を噛み砕いたものや、最技術のしくみを平易に解説したものなど、そのほとんどが研究対象について書かれたものだ。一方、研究者自身の、それも研究以外の仕事や人間関係にスポットが当たることは珍しい。その部分を敢えて赤裸々に書いたことで注目を浴び、多くの読者を得たのが「工学部ヒラノ教授」シリーズだ。すでに10点を超えるタイトルが出ている、一部には(?)根強い人気のあるシリーズである。

これまでのヒラノ教授シリーズでは、著者が大学生活をともにした、かつての同僚、師匠、部下、あるいは秘書などが登場人物だった。ところがこの最新刊では、研究者にとって(研究者以外にとっても)一番プライベートな人間関係である「家族」が扱われる。本書の主役は、著者が50年近く連れ添った奥さんだ。ただし、回想されるのは決して楽しい思い出ばかりではなく、書名のとおり、奥さんの「介護」が本書の主題となっている。

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東工大の教授としての地位を得、研究も軌道に乗ってきた矢先に、妻に難病が発覚する。年々症状が悪化していく妻の世話が介護に発展し、在宅での介護が難しくなると、夫婦そろって介護施設入居して、そこから研究室を往復する日々を送るようになる。そして、著者がちょうど私立大学の定年を迎えた5年前に、息を引き取る。そこまでの夫婦の日々が綴られている。

奥さんに対する著者の眼差しがとにかく温かく、心を打たれた。

こう書くと、「立派な大学教授による、悲しくも感動的な日々の記録」というような、美しい話に聞こえるかもしれない。けれど、決してキレイごとだけではなかった。絶望した著者の心に浮かんだ暗い着想、夫婦の「愛」という一言だけでは片付けられない相手への愛憎の念が在りのままに書かれている。著者の「後悔している」というエピソードには、正直目を覆いたくなってしまうものもあった。著者は自身の「心の冷たさ」のような部分も隠していないように感じられ、怖いほど真に迫っていた。

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闘病する家族の介護をしている人はたくさんいるはずだし、大学教授に限っても少なくないと思う。また、当事者が才能のある書き手だった場合、その日々を克明な記録を記し、本として出版することも珍しくない気もする。

けれども、この本にユニークな価値があるとしたら、工学者らしい視点で書かれている点にあるんじゃないだろうか。本書の中で、当然のことながら、著者は傷ついたり、絶望したり、自暴自棄になったりする。でも、それと同時に、どこかで冷静な著者がいるのが感じられるのだ。目の前の問題に対して、短期・中期・長期でどんな解が存在するのかを冷静に考える、工学者としての著者。しかも、著者は数理工学、それもオペレーションズ・リサーチという分野の第一人者だった。冷静に算盤をはじくことができたからこそ、介護生活と研究者生活(と執筆生活)を破綻なく両立させることができたのだろうと思えた。

著者とその家族に起こったことは、誰にでも起こりうることだ。だから、人生の酸いも甘いも知らない若造にとっては、生きるヒントが詰まった本だった。とくに私は、

  • 時間とお金を定量的に管理すること
  • 絶望的な状況の中でこそ、「記録」をつけること
  • 家族のために、仕事やキャリアの全てを犠牲にしないこと
  • 考え方や趣味指向に共通点の少ない夫婦でも、話題を見つけて言葉を交わすこと 

の大切さを学んだ(その意味は、本書を読めばよく分かってもらえると思う)。

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折に触れて思い出す本のなかには、「読んでいるときに面白くてゾクゾクした」とか「感動的な読書体験だった」などというのとはちょっと違う理由で、いつまでも心に残るものがある。この本はそうなりそうな予感がする。