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読書メモなど

読書メモ:自然主義入門(植原亮 著)

 

自然主義入門: 知識・道徳・人間本性をめぐる現代哲学ツアー
 

最近、科学と哲学の距離が近くなっているのだろうか。科学者と哲学者が合同開催するシンポジウムとか、「○○の科学と哲学」といった題目の共同研究を目にする機会が増えた気がする。そうした場では、科学者と哲学者は互いから何を得るのだろうか。それは、科学と哲学の関係をどう捉えるかによるだろう。たとえば、

  • 科学と哲学は本質的には同じもの
  • 哲学の土台のうえに科学がある
  • 哲学が発展すると科学になる 
  • 科学と哲学は、目的も方法も異なる別ものである

などいろいろな見方がありえ、どれが正しいかということ自体、長年の哲学の問題になっている。そうした「科学と哲学の関係にまつわる立場」の中で、いま最も勢いのある(?)のが、本書のテーマ「自然主義」である。

自然主義は、科学と哲学をひとつながりのものと考える。科学は、地球が太陽の周りをまわっていることや、物質は分子で出来ていることなど、世界に関するいろいろなことを明らかにしてきた。そうした知識を可能にするのは人間に備わっている能力だが、その能力(理性とか知性とよばれるもの)自体について問うのは、科学ではなく哲学の領分とされてきた。つまり、「人間の心」だけは、科学にとっての「前提」ではあって「対象」ではなかった。でも、よく考えれば、人間もまた世界の一部であるわけで、自然法則に従う存在であるはずだ。そこで、「科学する人間の心」も含めて、自然科学の方法で探究すべきではないか。哲学自身、科学的な方法で前進するのだ。自然主義をとる哲学者はそのように考える。

こう言うと、「そんなの当たり前じゃん」と「本当にそれでいいのか」という反応が同時に湧き上がるのではないだろうか。私の頭のなかでも、両方の声が同居している。現代人にとっては、ある意味で当たり前なのだが、一方でどこか反発したくなる、そんな見方ではないだろうか。

本書『自然主義入門』は、自然主義がどんなものであり、自然主義の枠組みのなかで今どんな論点が取り上げられており、自然主義の魅力(あるいは必然性)がどこにあるのかについて、とことん易しく解説した一冊となっている。副題にあるとおり、まさに「ガイド付きツアー」という感じの懇切丁寧だった。勁草書房の哲学書だと思って身構えていた自分は、良い意味で裏切られた。

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第1章では、著者は分析哲学クワインが用いた「ノイラートの船」という比喩を使って自然主義を説明する。「哲学者も科学者も、大海を漂い続ける一隻の船にみな乗り合わせて」いて、「力を合わせて航海という事業を続けるのである」(p.3)。この比喩は、哲学と科学は連続していること、そして「人間の知が共同性や歴史性を帯びることは避けられない」という自然主義の見方をよく表している。自然主義者は、人間の「心」の各側面を「自然化」すること、つまり、自然現象の一種として示すことを課題とする。

第2,3章では、そうした課題の一例として「道徳」が取り上げられる。道徳は、生まれつき人間に備わったものなのか(生得説)、あるいは生まれてからの経験で身につけるものなのか(経験主義)。道徳は、どの地域にも見られるが、内容は文化ごとに少しずつ違う。そうした道徳の普遍性と個別性をうまく説明することを競って考案された、生得説・経験主義の両陣営の様々な説が紹介される。

続く第4,5章では、「生得説」vs「経験主義」論争が、道徳だけではなく「心」一般でも行われていることが紹介される。「言語」「数学」「道徳」のようなそれぞれの領域ごとに専門にあつかう心のモジュールがあるとする「モジュール集合体仮説」。いや、すべては学習の結果であり、数・論理といった抽象的概念ですら生後に獲得されるとするジェシープリンツの議論まで、幅広く取り上げられる。

第6章では、生得説と経験主義の両方を統合する心の捉え方として、人間の心は、直観的・自動的な「システム1」と、理性的な「システム2」からなるとする「二重プロセス理論」を紹介する。さらに、人間のみが持つかのように見える「理性」を自然化する企てとして、環境の側を道具として取り込んで自分の心の一部とする能力をもった存在として人間を捉える、「拡張された心」「外的足場」等の考え方にも触れる。

以上、こうした「人間の本性」をめぐる議論はすべて、仮説づくりと実験や観察による検証という、自然科学と同じ方法でなされる。つまり、自然主義の枠組みのなかで行われている。このように、いかに自然主義が豊かであるかを見たうえで、後半ではいよいよ自然主義そのものの是非が論じられる。

第7章は、「規範」に関して自然主義に突きつけられた疑念に取り組む。自然主義は、たとえば人間の道徳とはどんなものであるかは教えてくれるが、「どんな道徳を持つべきか」は教えてくれないのではないか。著者の答え(の一つ)は「「べし」(規範)は「できる」(可能)を含意する」というもの。つまり、何ができるかを知っておかなければ、どうすべきかはわからない。道徳をよりよく設計するためには、「二重プロセス理論」などを通じて人間の心の特徴をつかんでおくことが有効になる。規範を考えるうえでも人間の道徳がどのようなものであるのか知ることが必須である点において、規範の問題は記述の問題と切り分けることはできない。

第8章は、自然主義に対する真正面からの挑戦に応答する。それは、「帰納は間違えるかもしれないではないか!」「どんなに科学で自分のことがわかった気になっても、もしかしたら僕らは培養槽の脳かもしれないじゃないか!」という「懐疑論」からの挑戦だ(後者は、映画マトリックスのような状況を引き合いに出して、経験だけから知りえたことが丸ごと間違っている可能性を指摘するもの)。これに対しては、本書は、では自然主義をとらないで物事を考えるにはどうすればいいか、と切り返す。懐疑論者は、経験によらない確実なところからスタートすべきと考えたデカルトの方法、つまり「アプリオリズム」を取らなければならない。しかし、信頼に足るアプリオリな能力などあるのか? アプリオリな能力そのものを科学で解き明かそうとする自然主義者にとって、デカルトの方法はとても心もとない。むしろ、懐疑論そのものが経験によって生まれたのではないか? 「懐疑論そのものが科学の内側から生じ、したがってまた科学の中で問われるほかないものなのだ」(クワインの引用p217)。さらに「培養層の脳」は、「同じ土俵に乗ったが最後、自然主義の側が必ず負けを強いられる」(p.223)ようなツッコミなので、その土俵には上がらずに、なぜそういうツッコミがなされるのかを自分の土俵で分析する。そのほうがよほど実りがある。

最後の第9章では、自然主義のもとで、哲学と科学はどのように協働するのかがテーマとなる。今まで自然科学が取り込めていなかった主題(道徳、理性など)について、哲学は論理地図を整備したり、あたらしい概念をつくったり、科学理論を評価したりすることにより、積極的に貢献できる。こうして考えると、「科学にとって哲学は避けられない」(p.247)し、「主題と方法のどちらの点についても、哲学と科学との間には埋めがたい溝はおろか明確な境界線さえ存在していない」(p.257)、そうした自然主義的な科学と哲学の関係の捉え方が導かれる。

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以上、各章の内容をまとめてみた。曲解もあると思うし、本書自体が十分易しく書かれているので、ぜひ本文をたどってみていただきたい。

本書を読んでもなお、自然主義に100パーセント同意できない自分がいるのを感じる。自分の心が生物進化論や脳内生理学でどんなに説明されたとしても、それでは掬い取れない「何か」が残るのではないか。科学が明らかにする「人間の本性」をもとに「ではどう生きるか」を考えるのには、科学から切り離された何らかの「哲学」を要求するのではないか。とはいえ、自然主義のしぶとさを思い知った。自然主義はどこまでも、「科学がすべてではないというのなら、対案を出してください。あなたの対案で、何か有意義な議論ができますかね?」という形で、切り返してくる。なお、誤解がないように補足しておくと、著者は決して自然主義を押し売りしているわけではない。たとえば、こんな書き方をしている。

あくまでも自然主義のスタンスを貫き通すなら、答えの見つかる場所を含むこの自然的世界のほうかはないと覚悟して、科学とともに探究を進めていく以外に道はない。p.237

 「あくまでも自然主義のスタンスを貫き通すなら」という表現は、それ以外のスタンスがありうることを示唆しているように読めた。

自然主義の手ごわさと同時に、その魅力も感じることもできた。自然主義は決して「心を脳に還元する」というような凝り固まったものでなく、たとえば「環境中に拡張した心」など、従来の科学的説明から外れるような見方を取り入れる余地があることがわかった。哲学が「科学に浸食されていく」のではなく、むしろ哲学が科学をグレードアップさせる可能性があると考えると、むしろ積極的に自然主義を応援したくもなった。

盤石な哲学のうえに科学を築くようなことはできない。先へ進むためには、「ノイラートの船」に乗り込むしかない。ただし、せめて「船に乗らなかった自分を想像する」ことくらいは、忘れないでいたい。本書の読んだいま、しばらくそんなスタンスでいこうかと思っている。

かりに「自然主義」というワードにぴんと来なくても、「科学に対して哲学は何をしてくれるのか?」ということに関心のある理工系の人に、ぜひ読んでみてほしい。