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読書メモなど

4年半前の所信表明(自己紹介のかわりに)

久しぶりにiPadを開いたら、だいぶ前に書いた文章の下書きが出てきた。たしか、就職する直前、学生として参加した最後の学会の最中に書いたもの。脳のこととか本のこととか、4年半たった今でも考えていることがほとんど変わっていないことに驚く(初心を忘れていないというか、全然成長していないというか)。ある意味でよい自己紹介になっているような気がするので、iPadから消す前にここに載せておくことにします。

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2012年3月×日

研究室を片付けた。ハードディスクメモリ(2年間のすべてが入っている!)を後輩に預けた。パソコンを返却した。バイトを辞めた。卒業旅行に行って、集合写真を撮った。いつも駅でいつもの電車を待っていると、自然と足が実家の方へ向かいそうになるけれど、今は帰る場所が別にあることに思い至る。

新しい生活が始まろうとしている。

東工大生としての2年間にはいろいろあったので、その思い出を文章にしておきたいなとも思ったのだが、面倒くさくなってしまったので、それよりもこれからのことを書いてみたい。

「これから始める仕事を通して何をしたいのか」「今後の人生に期待することは何か」。

会社は自分のしたいことをするために入るのではないとか、そんな理想は3カ月で打ち砕かれるよ、とか言われるかもしれない。けど、まず何も知らない状態で大風呂敷を広げておいても別に損はしないと思うのだ。何も分かっちゃいない状態で、好き勝手に言いたいことが言える最後の機会でもあるし。

「人生に期待すること」の大雑把な答えは、「自分の認識を180度変えてしまうようなアイディアに出会いたい」。発明でも、発見でも、理論でも解釈でもいいけれど、知る前と知ったあとでは世界の見方が一変するような考え方が世界のどこかで出現したときに、それを見過ごしたくない。大学院で専門として脳の生理学を選んだのも、そのような認識革命に最も迫っている分野だと思われたからだった。どうしてそんな野望を持つようになったのかはよく分からない。生きる意味はよくわからないし、そんなものないような気がする。生きる意味などないなら○○して死にたい、という文章の中の○○には人それぞれにいろんな文言が入る。人それぞれに違う人生観や情熱がどんな要因で形成されるのか、それも脳の不思議だ。僕の場合は、生きている意味などないなら、生きていることのわけのわからなさを少しでも解消して、その途中で死にたい。

もう少し4月から始める仕事に引き付けての「何がしたいのか」という問いへの答えとしては、「世に残すべきアイディアを持った人(人々)に出会い、それを一つの作品として、「本」という「商品」として、世に残すことに関わりたい」ということにする。

よし、この大目標に向けてがんばろう。
でも、ちょっと考えてみると、この目標にはいろいろと疑問符がつく。

まず「世に残すべきアイディア」と書いた。しかし、そんなものが存在するのか、という問題がある。僕が単純にも念頭に置いていたのは、ダーウィンの「進化論」とか、カントの「純粋理性批判」など、後世に繰り返し読まれ、人々の考え方に大きな影響を与え続ける書物のことだった。しかし、今の世の中はどうだろう。ダーウィンとかカントのような知的巨人はいなくなって、誰もがめいめいに発言し、膨大な量の言説が飛び交って流れ去るようになった。現時点の自分にとって役に立つ情報だけが有用なものとなった。「なった」と書いたけれど、今始まったことではないのかもしれない。普遍的価値を持つアイディアなどというものは存在しないのかもしれない。日本史の教科書の編者でもある高校の恩師によると、歴史の教科書というのは毎年新しい解釈のもとで書き換えられるものらしい。結局のところ、ソクラテスは間違っていて人間は万物の尺度なのかもしれない。だから、一冊の書物に揺るぎない価値が宿っているなどと信じるのはナイーブすぎるかもしれない。

という疑念はあるけれども、それでもなんとなく価値あるものとないものがあるように思われるのも事実。好き嫌いでもいいけど、その違いはなんなのか。そもそも価値とは何か。「価値」の出自について、社会学的、心理学的、生物学的な研究がなされて来ている。例えば、脳の生理学では、快楽や報酬の物質的基盤が明らかにされつつある。(いや、明らかにされつつあるというのは、僕から見るといい過ぎで、「関係のありそうな生理現象の記述が進んでいる」という感じだろうか)。価値が相対的なものであるにしても、価値とは何か、に迫る学問的知見には「世に残す価値のある」と僕は思うのだが。。。

仮に(限られた時代の、一部の人々に対してにだけかもしれないけれど)残すべきアイディアというものが存在したとする。しかしなぜそれを本という形で残さなければならないのか?これは分からない。分からないなりに、そのことについて考えてみよう。

アイディアは誰かの脳の中だけでは完結しない(ここでは「悟り」のような個人的な経験ではなく伝達可能なものを考えている)。脳の中にはアイディアの芽となる神経活動は、紙とペン、あるいはコンピューターなどの外界との相互作用のなかで形になる。で、その成果をどのように表現し、世に残すか。本という形式が最適なのか。

「世に残すべきアイディアは、本の形をして世の中に現れる。」

この命題は真か偽か。少なくとも今まではこの命題が成り立つように思える。古今東西の思想や発見は、書籍として著され、流通し、保存されてきた。それはまあいいと思う。問題は、これからもそうであり続けるかということだ。本は他の媒体、例えばネット上のまとめサイトのようなものにとって変わられるようになるのだろうか。書籍という形式に、どれくらいの必然性があるか。

根拠は薄弱なのだけれど、必然性は結構あるのではないかと思う。「本であることの必然性」について、今思っていることを、二つに分けて考えたい。はじめに、音声や映像ではなく、文章である理由。そして第二に、文章を本の形にまとめる理由。

まず、文章を使うことについて。これは当たり前だと思われるかもしれないけれど、例えば画像を使って意思疎通をする新人類というものも不可能ではないので、ここを疑っておこう。人間の情報伝達において、文字はとても優れている。人は(たぶん)匂いではコミュニケーションをとることはできない。画像や音楽は次元が高すぎるゆえに、人によって解釈を統一することが難しい(だからこそ、「言葉にならないもの」を表現をすることができる。)だから人は、音韻や図形をいったん記号に還元し、そこに意味を割り当てる「言葉」を発明した。そして、言葉を視覚的に記録しておく装置として、文字を発明した(もちろん声の録音や点字もあるけれど、人間の脳は視覚の処理に長けているので、文字が一番使いやすいと思う)。テキストは、文字を一列にずらずら並べたものが、これを順番に読むことによって、意味が伝わる。ところでなんでテキストは一列ずつしか読めないんだろう? 二行いっぺんに読めたら便利なのに。もうひとつ、なぜ言語には語順があるのだろう? バラバラの単語を見ただけで意味を組み立てられてもいいじゃないか。これは、もちろん脳の情報処理機構に大いに関係のあることだろう。一列のテキストしか読めないことから分かることは、脳が処理できる情報には「時間軸」が入っていなければならないこと、そしてその時間軸は高々一本でなければならないことだ。それはともかく、ストーリー立った考えを伝達・保存する手段としてテキストは随一の手段のように、僕には思える。

次に、本である理由について。これについては、何が「本」なのかよく整理できていないのでうまく書けない。書店に並んでいるような紙の本のことなのか、電子書籍も含めた概念としての本なのか。ただ、これに関係していると思えることで、近ごろ考えていることが二つあって、それは「空間的記憶」と「テキストの物理的実体」というものだ。

最近読んでいる"How we remember" (Hasselmo 2011) という本は、記憶が脳で形成される仕組みについての本だ。ネズミの脳での実験結果から、神経細胞がどのように記憶をコードしているかについての、生理学モデルを提唱している。(総説論文のような専門的な内容の本なのだが、このようなざっくりした題名にしたのは、このモデルが人間の脳の動作原理にも迫っているはず、という著者の期待が込められていると思う。)ネズミ(他の動物でも)は、過去の経験を手がかりに、主に海馬とその周辺に空間的位置を表現する神経細胞(場所細胞)が形成されことによって、脳内に外界のマップを作る。それらがネズミが通った経路に沿って順番に発火することによって、あるエピソードが想起される。このように場所の記憶と過去の経験の記憶は、神経細胞の時空間の活動パターンによってコードされているらしい(という良くできたストーリーが通説になりつつある)のだ。

僕はこの本を読み始めたとき、ちょっと変な気がした。というのも、記憶のメカニズムについての本だと言いながら、どうして場所の記憶の話ばかりなのか。著者は、「いつ・どこへ行った」という記憶が、記憶のすべてであるような書き方をしている。でも、場所とか時間に関係ない記憶はどうなるの?と思ったのだ。それで次に考えたのは、「すべての記憶は、時空間の記憶を、うまいこと転嫁したものではないか?」ということだった。例えば、飲み会で知り合った人の名前を思い出すさいに、お店の雰囲気と席順の記憶は大事な手がかりになる。そしてよく考えたら、「すべての経験には場所と時間の属性が付与されている」とはカントが言ったことだった。人間は先天的に時間と空間の形式を持っていると。本来、脳は時間と空間の記憶の配線しか備えていないというのも、ありうる話じゃないだろうか。

「メディアとしての本」の話に戻る。
文章を読む、というのも、脳にとっては基本的に記憶の問題だ(読んだあとに全てを忘れてしまったら読んだことにならない)。
記憶の源泉が時間と空間の認知にあるのだとしたら、文章の空間的配置は、読書体験にとってとても重要なものだということになる。「文章の空間的配置」とは、ページの中のどの辺に書いてあるということでもいいし、本のどの辺のページかということでもいい。文章は、それが提示された空間的配置と共に脳に記憶される。何枚もの紙を綴じた「本」という形式は、文章に空間的な文脈を与えるのに適していたからこそ、長いこと用いられてきた、という仮説が成り立つ。だから、紙の本を越えるメディアが出てくるとしても、(画面のスクロールとかで?)空間的配置に気をつかうことが重要と思われる。(よく考えて見たら、ここまでの話は、前に読んだ『本はこれから』というエッセイ集に影響されている気がする。)

以上、「世に残すべきアイディアは、本の形をして世の中に現れる」と僕が思う理由を述べてみた。説得力はないかもしれない。最近の「メディアの変化」を見ていると、あっという間に何もかも変わってしまうかもしれない気もして、自信がない。TwitterとかFacebookを皆が使うようになってから、情報との付き合い方がまるっきり変わってしまったのを感じる。なんだかネット上に足跡を残さないと自分が存在しないような不安を感じるし、多分その不安を緩和するのに一役買っていたブログも、なんだかメディアとして古びてきたような感もある。本が人間の脳のなりたちに適した媒体であるという議論だって、屁理屈にすぎないかもしれない。人間一般の脳じゃなくて、お前の脳が本に過適応してるだけだろうって言われるかもしれない……。

まあ、どんな形にせよ本は必要だよ、っていうことにしよう。
残る疑問は、本を商品として作る意味は何かということと、自分の役割は何かということだ。本を書くのはアイディアを持っている著者であり、本を書いて世に出すことは一人でもできる。自分の役割は何なのか、自分は何の専門家になればいいのか。まだ分からないので、答えを探していきます。勤務時間に居眠りしたりしないようにがんばろう。