「メディア論」という分野には、なんとなく興味はあったものの、これまで触れたことがなかった。ちくま新書から面白そうな本が出ていたので、手にとってみた。著者はメディア論や記号論を専門とする東大の教授で、本書は社会人向けの講座を書籍化したものだという。たいへん面白かった。
メディア論が気になっていたのは、やはり自分自身、メディアとの関わり方についての悩みにがあったからだと思う。たとえば、
- どのメディアと、どれくらい触れるのがよいのか? (どれくらいの時間を読書に割く? 月に映画を何本観る? 誰のブログを読む?)
- SNSをどう使うか? (4,5年前までtwitterやFacebookをやっている人を傍目に見て違和感を覚えていたのに、いつしか自分自身がヘビーユーザーになってしまったことへの居心地の悪さへの折り合いをどうつける?)
- どこまでガジェットとかWebに頼っていいのか?
などは常に悩みの種だし、毎日大量のツイートを読み、ネット記事を読み、映画を観、テレビを観、ラジオを聴き、ポッドキャストを聴くなかで、ふと、こうして膨大な情報を消費し続ける自分は「人間として大丈夫か?」などと考えてしまうことさえ正直ある。この本は、そういう「メディアとどう関わるのか問題」を考える際の重要な指針を与えてくれているように思えた。
本書がよって立つのは、著者の専門である「記号論」ということになる。
記号とはなにか。本書によれば、それは「意味や意識を生み出す要素」、つまり、文字・映像・音声など人間が意味を見出すもののすべてだ。記号と人との関わり方は時代とともに変わっていく。本書では、メディアの歴史を「書籍の時代」「アナログ・メディアの時代」「デジタル・メディアの時代」の三つに分けて、その中で記号がどう使われてきたかを論じている。
実は、「記号論」は学問としては終わったとみなされることが多いのだそうで(現役で記号論をやっているのは、著者含めて世界に3人しかいないのだとか)、それでも先ほどのようなメディア問題を考える上で記号論を新しく作り直すことが有効なのだ、というのが著者独自のスタンスとなっている。従来の記号論は、主にアナログ・メディアに当てはまるものだった。“マスメディアが欲望を生み出す装置として使われ、「記号」が消費されるようになった”など、どこかで聞いたことのある言説も、このアナログメディアの枠組みでなされた。
しかしその後、デジタルになると、メディアと人々の関係の仕方は革命的に変化した。デジタル・メディアは、すべての「記号」を01の数字に変換することによって、人間だけではなく機械も記号を読めるようにした。そうして世界がデータすると、世界にあるものはすべて「検索」でリーチできるようになる。と同時に、検索を実行するコンピュータは逆にユーザについての知識を蓄えていく。つまりメディアの側が、情報の受け手とともに時々刻々変わっていく。そうした変化に応じて、記号にも新しい役割・意味が発生する。それを捉えた新しい記号論を打ちたてる必要があるのではないか。その場合の記号論は、ソシュールから始まる狭義の記号論ではなく、そもそも「計算のための世界の記号化」を構想したライプニッツまでさかのぼる必要があるのだ。そんな大きな構想の一部を、本書では紹介している。
といっても、この本では記号論の詳しい解説がされるわけではない(著者独自の「石田記号論」は、近いうちに専門書として出版されるとのこと)。後半ではむしろ、記号論から少し離れて、デジタル・メディアの中で僕らはどう生きればいいのか、という一般人の関心事に沿った内容になっている。たとえば、現代人の置かれたメディア状況の「情報の過剰さ」という問題に触れて、次のように書いている。
ひとりの赤ちゃんに複数の人が同時に話しかけた場合、赤ちゃんはどちらを向いていいのか分からない。注意力が散漫になり、何かひとつのことを理解することができなくなる。同様に、メディアの発達により、私たち現代人も自分たちの注意をコントロールすることができなくなりつつあるのではないか。情報が氾濫する時代には、注意力・意識・思考という、人間の希少資源をめぐる精神のエコロジー問題が発生しているわけです。(p210)
つまり、僕たちは今、心を汚染する情報にまみれた環境の中に生きている。どぎつい比喩だけど、そのとおりだという気もする。ちなみに、そんな「心のエコ問題」を解決していくために、著者は「批評(クリティーク)」の役割が重要になるという。文学や映画などを対象に、その作品がその時代の個人や社会にとってどんな意味をもっているのかとか、どこが良くてどこが悪いのかなどを言葉で表現するのが批評という行為だが、それを今度はデジタル・メディア自体(たとえばグーグルの検索エンジンとか)を対象にしてやっていくべきだという。東大の中での取り組みがいくつか紹介されているが、個人として実践するのはなかなか難しそうに思った。
最後に、個人的に重要だと思ったこと。
この記号論に、「人工知能」についての新しい見方を与えてくれる可能性をすごく感じた。つまり、人工知能の文脈では、機械は人間の認知機能を「再現」するものとしてが考えられることが多いけれども、本書の「記号論」では人工知能(=デジタル・メディア)は記号を人間とは違う仕方で処理する別種の情報処理主体として捉えられていて、機械は人間と同列なものというよりも、両者はインターフェースでつながれて共に進化するもの、というイメージになっている。これは実体に合っている気がすごくした。
そして驚くべきは、こうしたことをライプニッツがすでに考えていたということ。著者は、デジタル時代に生きる現代人のメディア状況を捉えるためにライプニッツの記号論を蘇らせようとしている。そういうことができる「人文知」はやっぱり凄いし、ライプニッツは偉い。