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読書メモ:我々みんなが科学の専門家なのか?(ハリー・コリンズ 著、鈴木俊洋 訳)

 

我々みんなが科学の専門家なのか? (叢書ウニベルシタス)

我々みんなが科学の専門家なのか? (叢書ウニベルシタス)

 

書名が面白い。『我々みんなが科学の専門家なのか?』。この疑問に対する本書の答えがこれ。

「我々みんなが科学の専門家であるわけではない。」(終章「結論」より)

書名で疑問を提起して、シンプルに「No」と答える。これだけだと何のことかわからないが、この自問自答の意味は、中身を読むとわかる。

それはどんな意味か。

「我々みんなが科学の専門家なのか?」を「誰が科学の専門家なのか?」と言い換えたほうが分かりすいかもしれない。これは、私たちの日々の生活にも関係する問題だ。たとえば、テレビに出てばかりの“自称”科学者(いわゆる「タレント学者」)や、政府や特定の産業の利益を代弁する「御用学者」の言うことを真に受けてはいけないと言われるが、では、タレント学者や御用学者と本物の科学者をどうやって区別すればいいのか。そういった、「どの科学者を信じるか」問題につながるのだ。

「誰が科学の専門家なのか?」に答えるためには、専門家を専門家たらしめているもの、つまり「専門性」や「専門知」とは何か、を考える必要がある*1

この問題に取り組んできた分野に、科学論(science studies)がある。科学論は、大きく科学史・科学哲学・科学社会論に分類され、本書の著者コリンズは3つ目の科学社会論で有名な研究者だそうだ。本書では、専門知をめぐる科学社会学(や科学論)の議論の大きな流れを概説しつつ、「誰が科学の専門家か?」に対する著者なりの答えを示している。著者の研究事例には踏み込まずにコンパクトにまとめられた、非専門家(「科学論」を専門としない読者)向けの入門書となっている。

科学の捉え方は時代とともに変わり、それに応じて「科学論」の扱うテーマも変わってきた。本書第1章では、科学論の主題の変遷を「3つの波」として整理している。科学への信頼を背景に「なぜ科学は上手くいくのか」を主題としていた「第1波」。科学といえども人々の合意でできているという側面にフォーカスし、科学を世俗的なものとして描いてきた「第2波」。そして、個々人の科学者が世俗的な存在であるとは認めつつも、「科学者の専門知はどう特別なのか」をもう一度テーマに据えるのが、著者が提唱する「第3波」ということになる。

「第2波」によって、「専門知は(狭い意味での)専門家だけのものではない」という考え方が広まった(だから「我々みんなが科学の専門家なのか?」という問いが意味をなす)。たしかに、患者が自分の病状について医者なみに詳しくなったり、大学や学会とは無関係に研究をしたりする人もいる。

でも、だからといって「今や誰もが専門家なのだ」とするのは行き過ぎだ。そう考える著者は、第2章にて、「専門知にもいくつかの種類がある」という議論を展開する。

ユビキタス専門知」、「スペシャリスト専門知」、「メタ専門知」、その下位のサブカテゴリ―としての「ビールマット専門知」、「一次資料知」、「対話的専門知」、「貢献的専門知」、「技術的見識眼」等々、独特な用語づかいで細かく分類がなされる。なかでも、とくに「一次資料知」「対話的専門知」「メタ専門知」の三つが重要となる。

  • 一次資料知(primary source knowledge):当該分野の原論文を読んで得られる専門知
  • 対話的専門知(interactional expertise):当該分野の専門家(実際に論文を書いて分野に貢献している専門家)のコミュニティとの交流によって得られる専門知
  • メタ専門知(meta-expertise):専門家を判定し、様々な専門家の中から一人を選ぶときに使われる専門知

「一次資料知」と「対話的専門知」は、その分野で実験をしたり論文を書いたりしているコアな科学者でなくても持てる点では共通している。しかし、大きな違いがある。それは、後者には「科学者コミュニティの共有している暗黙知」が含まれるが、前者には含まれないということだ。

一次資料知だけに頼ると、その分野にいれば誰もが知っていることを見落としてしまう。本書第3章では、一次資料知の弊害として、「偽の科学論争」を生んでしまうことが指摘される。その分野では全く評価されていない異端的な研究者の論文を素人が読んで真に受けると、それが「本当の科学論争」があるように見えてしまう。たとえば、HIVのワクチンの副作用についての異端的研究者の論文をもとに、ワクチン接種が(不当に)見送られた南アフリカの例が挙げられている。こうしたことを防ぐためも、専門家がコミュニティのなかで共有している「暗黙知」は重視されるべきであり、それゆえ一次専門知よりも対話的専門知に価値がある。

では、対話的専門知を持たない一般人は、科学的な判断にまったく関与できないのか。そうではない。当の専門家たちがちゃんと科学を遂行しているのかをチェックすることは一般人にもできるし、しなくてはいけないというのが、第4章のテーマとなっている。ただし、それは論文を読んで詳しくなること(=一次資料知を身に着けること)によるチェックではなく、「メタ専門知」を使って「誰が信用できる科学者か」を判断するという意味でのチェックである。具体的には、タバコ企業からお金をもらってタバコの害を小さく見せる論文を書いている科学者がいたら追及すべし、というようなことだ。

最後に、専門家コミュニティーを信じるべき理由は何かという疑問が残る。これについては、著者は手短に、普遍主義・懐疑主義・利害中立といった「科学者のエートス」を挙げている。科学は、一部の例外はあるにせよ、おおむね科学者のエートスをもって遂行されているので、その内部でなされた議論は一般人の議論と等価ではなく、リスペクトされるべきものとなる。

感想を少しだけ。

まず、「専門知を尊重すべし」という著者のスタンスには共感するし、「なぜ尊重すべきか」を科学社会学が説明してくれるなら素晴らしいと思う。ただ、本書だけでそれができているかというと、疑問もいくつかあった。たとえば、著者のいう「科学者のエートス」は、本当にあらゆる専門的科学者の集団で保たれているのか、分野ごと地域ごとに「劣化」するということがないのか、ということが気になった。

それでも、納得できる部分も多い本ではあった。とくに、以下のような個人的な教訓が得られた。

  • 本や論文を読んだだけで分かった気になるのは危険!
  • 専門家と会って話をするのが大事!
  • 主流派コミュニティとインタラクトしていない自称専門家には注意!(異端科学者の真価が分かるのも主流派科学者だけ!)

といったところだろうか。

あと、翻訳者の注釈と解説が充実していて、とても勉強になった。原著を読んでいたとしても買う価値のある邦訳本になっていると感じたし、学術書の翻訳書はこうでなくちゃいけないなと思った。

*1:「専門性」や「専門知」はどちらも“expertise”の訳語だということを今回初めて知った。なお、今回の翻訳では一貫して「専門知」が使われている。