2回目の通読を終えて,感想を書こうとパソコンの前に座った.けれど,どんな言葉を発すればよいのか躊躇している.
感想を書くのにこんなに身構えてしまうのは,たぶん,この本をあまりにも個人的に読んでしまったせいだ.もちろん数学についての論考は興味深かった.でも,別の,もっと身に迫る思いを掻き立てられた.僕だけではないと思う.この本を読んで,「森田さんは20代最後の年にこれを書いた.お前はどうだ?」という自分の心の声を聴いた人は.
もちろん,著者のようになりたいという訳ではないし,なれる訳もない.別に30歳で本を書かなくてもいい.そういう表面的なことではなくて,この本を読んで突きつけられるのは,「自分がやっている学問・仕事について,こんなに深く考えたことがあるか?」とか「自分が生きているということについて,これほど真摯に向き合ったことがあるのか?」という疑問なのだ.
***
これは数学についての本だ.
ただし,数学について勉強するための本ではなく,「数学をするとはどういうことなのか」を書いた本であり,これは勝手な解釈だが,著者が「なぜ私が数学にこんなに惹かれるのか」について言葉を尽くした書いた本でもあると思う.
「数学は行為である」という.どういう意味で行為なのか.本書は,数学の起源にまでさかのぼり,人が数字という道具をつくり,証明というコミュニケーション術を発明し,やがて記号,方程式,形式系など,より高度な道具を編み出していった,数学の歴史を描写する.自らつくった道具を用いて思考していると,思考と身体的行為の区別がぼやけてくる.だから,抽象的な数学も行為なのだという.
数学という行為をすることによって,「風景」が見えるという.たとえば,19世紀の数学者たちが目にした,それまでに知られていない関数の群からなる異様な「光景」.岡潔が自身の研究テーマに選んで「急峻な山岳地帯」と形容した,多変数関数解析の「風景」.
また,著者は,数学は「建築」であるといい,「自然」でもあるという.
数学をするプロセスは,人間の脳にとどまるものではなく,脳や身体から漏れ出ているという.
そうした非凡な実感の数々を,著者だけの実感だけにとどめることなく,あるときは脳科学の研究を引き,あるときは数学史のなかに事例を見つけ,またあるときには,同じ実感を持っていたであろう人物(主役はチューリングと岡潔)に憑依して彼らに語らせることで,僕ら読者に訴えかけてくる.というか,そうして数学について調べてきたからこそ,数学は建築であり,数学的自然を育てることでもあり,独特な風景を捉える行為である,という実感を著者が持つことになったのだろう.
残念ながら,この本を読んだからといって,読者である僕がそうした実感を持てるわけではない.高校までに学んだ数学でもいくらかの「風景」は見えていたと思いたいが,大学で数学を修めた人などに比べたら,ほとんど何も見えていないに等しいはずだ.それでも,著者が本当に心の底からその実感を得ていることだけは伝わってくる.
それが,素晴らしいことだと思う.
***
森田さんが数学について語る言葉を得るために費やした何分の一のエネルギーを,自分は自分の疑問を追いかけていることに費やしているだろうか.
心もとない.
でも,いまからでも遅くない.
せっかくの人生だし.
そんな気分にさせてくれる,大切な一冊となった.