重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:勉強の哲学(千葉雅也 著)

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

ずっと気になっていた本。2017年を代表するヒット本の一冊として評価されてきているようなので、今年中に読めてよかった。

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フランス現代哲学を専門とする著者が「勉強」の心構えと方法について指南するという、変わったコンセプトの本だ。

ただし本書の言う「勉強」は、「海外旅行に行く前に現地の言葉を勉強しておこう」とか、「仕事の幅を広げるためにマーケティングを勉強してみよう」などという勉強とはかなり違っている。

語学や資格の勉強のように、やればやるほど自分にとって「有利になる」もの。面倒くさいけど、やっておいて「損はない」もの。本書は、そうしたイメージと真逆の勉強観を提示する。

著者いわく、勉強とはノリが悪くなることである。場から浮くことである。もっと言えば「キモく」なることである。

決して人格が立派になったりするわけでもない。

勉強とは、まず、小賢しく「口ばっかり」になることです。僕は確信をもってそう言いたい。(p.168)

場の空気を読まずにベラベラしゃべってしまったり、逆に何も言えなくなってしまう。そういう人間をつくってしまうのが「深い勉強」。一方、プラス面としては、それは自分が知らないうちに支配されているノリ=「コード」から自由になることであり、自分が知らずにもってしまっている「こだわり」を解体することでもある。

ということで、本書は決して「勉強のススメ」ではなく、むしろ勉強せずにいられない人に対して、「勉強をこじらせない」ための心構えを伝える本となっている。著者独自の仕方で「勉強とは何か」を組み立て直し、「こういう勉強はやっちゃいけないよ」というメッセージを出している。

本書によれば、自分を変えてしまうような「深い勉強」は二つの方向へ進む。根拠を疑うこと(アイロニー=ツッコミ)と、見方を変えること(ユーモア=ボケ)。どちらもやりすぎると収集がつかなくなる。アイロニーは過剰な深追い、ユーモアは過剰な目移りという形で。

アイロニーに主導権をとらせたままならば、全方位に、あらゆる問題にツッコミを入れ続けながら、決して到達できない究極の真理を夢見続けるという、という人生になりかねないのです。(p.136)

コードの不確定性を最大限にまで拡張してしまえば、どんな発言をつないでもつながる、つながっていると解釈しさえすればいい、ということになる。(…)過剰なユーモアでは、話の「足場が多すぎて不在になる」のです。(p.98)

だからどこかで勉強を止めなくてはいけない。勉強を「有限化」する必要がある。「何でもあり」ではなく何かに重みを与えるために、自分が子供のころからこだわってきたこと(=個人的な享楽)を手掛かりにすることを本書は提案している。

後半の章では、勉強を健全に続けるためのノウハウを開示する。書籍の選び方、アプリや手書きノートの使い方。(書籍を、まず専門書と一般書に大別し、専門書を入門書/教科書/基本書に分けるというカテゴライズの仕方は新鮮だった。)日常生活と並行して「勉強のタイムライン」をつくること。そうして「一応の勉強を成り立たせ」、「中断しながら」勉強を進めることを推奨する。

感想

勉強について、うすうす思っていたけど誰も言ってくれなかったことが書かれていた。そうだよね、勉強って無害なものじゃないよね。のめり込みすぎるとヤバい人になってしまうよね。とても正しいと思った。

詳しくはわからないが、本書はドゥルーズガタリウィトゲンシュタインなどの哲学が学問的背景にあるらしい。たしかに、考えてみれば、「勉強とは何か」を語るには「知識とは何か」「わかるとはどういうことか」についてよほど深い哲学が必要になるのは当然だ。たとえば、「人は科学的方法によって真理に近づいていける」というナイーブな知識観を持っている人は、決して本書のような勉強論にはたどり着かないはず。ドゥルーズなどの哲学については何も知らないが、本書の内容が導出できるようなものなのならば、魅力的だと感じた。

「勉強の哲学」に無自覚な人は、もしかしたら生涯こじらせた勉強を続けることになってしまうのかもしれない。そう思うと恐ろしい。自分は30歳でこの本に出会えたが、20歳のときに読むことができていたら、違った20代を過ごせたかもしれない。