経済学者による、経済学研究の入門書。クレイトン・クリステンセンの「イノベーターのジレンマ」を、経済学的な実証分析で検証するという内容だ。
中身は決して簡単ではなく、論理を追いきれないところもあった。しかし、びっくりするほど面白く、読ませる1冊だった。噛んで含めるような説明をしつつ、「面白いからついてきてね!」と言わんばかりに、ぐいぐい飛ばしていく。アメリカに籍を置く若手研究者の本で感じることの多い、勢いのある筆致が印象的だった。
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「イノベーターのジレンマ」とは、ある産業分野で優位に立った企業が、その成功ゆえに次のイノベーションを起こせずに、新興企業に取って代わられてしまう現象(とその状況に既存企業を追い込む構造的要因)のことだ。経営学では言わずと知れた理論で、門外漢の私も、会社の上司が口にするのをたびたび耳にしたことがあった。(私自身は『イノベーションのジレンマ』(邦題)は未読だが、クリステンセンの別の本を1冊読んだことがあった。)
クリステンセンは、業界レポートや関係者のインタビューなど、「経営学史的」な方法により、次のイノベーションと既存商品がバッティングすること(=「共食い」)など、いくつかのジレンマの要因を挙げている。しかし、多くのビジネスパーソンたちが目からうろこを落とすであろうところで、経済学者である著者は納得しない。
「能力」と「結果」の因果関係などというのは、 そんなに簡単に実証できるものではない。 業界誌を読んだり経営者にインタビューしたくらいでは(というのがクリステンセンの分析手法だった)、本来全く歯が立たないはずの実証課題である。
そこで、著者は博士論文研究として、「イノベーターのジレンマの実証」に乗り出した。具体的には、クリステンセンが主な研究対象としていたHDDメーカーの新旧交代を取り上げ、過去のHDD業界の実際のデータをもとに分析を行っている。
分析の詳細としては、
などをしている。各数値が導かれる論理は入り組んでいて、ミクロ経済学の知識も要求されるので、完全に理解するのは難しい。それでも、「こういうことをやるのか」という雰囲気は伝わってくる。
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本書の内容は、企業経営者や、イノベーション政策にかかわる官僚の人には大変役立つものだと思う。とくに政策決定に携わる人には、「何となく説得力のある理論」ではなく、本書のような、鮮やかさはなくても実証に裏付けられた研究をもとに議論してほしいものだ。
一方、「イノベーターのジレンマ」自体にはそれほど関心がない(私のような)読者にとっては、本書は「経済学研究の姿を知る」ためには恰好の本だと思う。著者もそうした読者を意識していて、研究テーマの決め方、問題へのアプローチ、どんなツールを使い、どんな仮定を置くかなど、「研究の心得」的な持論をあちこちで述べている。
「理論」 の補助線なしに、 現実を解釈したり因果関係を見出すことは出来ない。
結局何が言いたいかというと、そのまま放っておいたら「データは何も語らない」ということだ。むしろ私たちは積極的に「データに耳を傾ける」必要がある。
しかし実証・応用において、「問いのない研究」は「オチのないお笑い」のようだ。「モデルの拡張」「手法の応用」「業界の調査」。いずれも結構だが、
・なぜその作業をするのか?
・それが出来たら何が嬉しいのか?
そういう「動機」に裏打ちされていないと虚しい。
等々。
「イノベーションの起こしやすさ」などといった漠然とした概念は、研究者のセンスで巧みに数値化し、モデル化し、手持ちのデータから導ける数値で議論できるように料理しなければ、「科学」の俎上に載らない。本書は、その「プロの技」がどんなものかを、素人にも分かるように伝えてくれる。
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とにかく、「学術研究の一般向け解説書」の模範のような本だった。(…本書の場合は著者の力が大きいと想像するが、もし博士論文を本書のような入門書に「変換」できる編集者がいたら最強だ。)
学術書系の編集者はもちろん、広く科学コミュニケーションに関わる人にとって参考にすべきところが多いはず。