重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:英米哲学入門(一ノ瀬正樹 著)

 

英米哲学入門 (ちくま新書)

英米哲学入門 (ちくま新書)

 

副題の『「である」と「べき」の交差する世界』に惹かれて買った。

「である」と「べき」の線引き問題については、以前から気になっていたからだ。まず、そのことについて少し書いてみたい。

「である vs べき」が気になるわけ

「である」とは「世界はどうなっているか」という事実の問題のことで、「べき」は「私たちはどう振る舞うべきか」という規範の問題のこと。一見すると、二つはまったく別の領域に属する問いに思える。

部活で「代々1年生が球拾いをしてきたのである」からといって、「だから今年の新入生も球拾いすべき」とはならないはずだし、「人類史上多くの文化で一夫一妻制がとられてきたのである」からといって、無条件に「それ以外の婚姻は認めるべきではない」ともならないはずだ。なので私などは、第一感では「“である”と“べき”は別問題ですよね」と片付けたくなるのだが、しかし最近、どうもそう単純でもなさそうだ、ということに気づき始めた。

たとえば、下記のポッドキャストでもこの問題が議論されていた。

このツイートでは、私は依然「べき」と「である」は峻別されるという側に賛同している。でもその後、ハリス氏以外にも、「である」と「べき」の区別は私が思うほどクリアに引けないとする立場の専門家が少なくないことを知った。

なぜ「である/べき問題」が気になるのだろうか。

一つは、「科学者の役割の範疇」について興味があるからだと思う。科学者は「である」にだけ関わっていて、「べき」を議論するのは科学ユーザーである市民。そう割り切れればスッキリするけれど、果たしてそれでよいのか、という問題。

もう一つ、自分の周りの人とのコミュニケーションに影響してくるという、より切実な理由もある。「日本に移民を受け入れるべきかどうか」「原発を再稼働すべきかどうか」あるいは「夕飯を食べるときテレビを消すべきかどうか」について、身近な人と意見が食い違ったとする*1。その見解の相違は、どの程度まで「事実の認識」の問題なのだろうか。「移民の経済効果」「原発の故障確率」「テレビ視聴と自律神経の関係」、その他もろもろの「事実」に関して合意することが、対立解消にどれくらい役に立つのか、あるいはまったく無駄なのか、ということは知りたい。

あるいは、そのうち自分が直面するだろう問題として、子供に「理屈抜きの規範」、つまり、「理由はないけど、こうすべきなんだよ」ということをどれくらい教える必要があるのか、ある程度は「こうすると相手は傷つくよ」とか「この伝統にはこういう合理性があるのだよ」という「である」を教えるだけでよいのか、ということにもつながってくる。。

……などなど、意外と身近で重大な問題な気がするのです。

英米哲学入門』を読んで

そんな「である/べき」問題に、何か有用な示唆が得られることを期待して読んだこの本。

まあ、自分には、難しかった。

体裁としては、著者の分身である「シッテルン博士」が、噛んで含めるように解説してくれ、各章末で生徒役のキャラクターの質疑応答までしてくれる。が、内容自体は本格的。「あとがき」にて

哲学に入門してもらうとは、本当に「分からない」、という体験をしてもらうことにほかならない

ともあるように、手加減せずに、一部はプロレベルの(?)哲学的議論が展開されている。

読みこなせなかった部分も多かったが、面白いと思った部分を中心に、感想を書いてみる。

まず、「である/べき」問題についての著者のスタンスは、両者は峻別できるものではないが、完全に一体というわけでもない、といったあたりになる。

「べき」には「である」に対して何かグラデーションをなすような、程度的な関係があるんじゃないかって思うんだよ。「である」を濃密に含む「べき」と、「である」に薄くしか依拠しない「べき」と、そのはざまに混合の割合のグラデーションがあるように思うんだよ。(p.344)

このような考え方に基づきつつ、タイトルどおり、英米哲学での主要なテーマが取り上げられていく。

全3章からなる。

第1章では、「世界はどうなっているか」についてラディカルな観念論をとったバークリの哲学がメインに紹介される。そのなかでは、「何かがある」というときに使われる言葉の選択のうちに、すでに規範に基づいた制約が入っていることが指摘される。つまり、「である」のなかにはじめから「べき」が入っている。第2章では、「必然性」と「因果関係」が主なテーマとなる。「責任」と「原因」の二分法が、「べき」と「である」の区分に対応するという構図が示される。責任と原因は、一見違うもののように思えるが、たとえばギリシャ語では「アイティア」という一つの言葉で表されるのだという。

私は、現象間の因果関係と、「報い」としての因果応報は、因果性として同種である、少なくとも基本的性質を共有している、とさしあたり仮定して論じてみたい。(p.135)

いやいや、違うでしょ、別物でしょ、と私などは応答したくなる。その反応の理由を、著者は言い当てている。

「ピュシス」と「ノモス」、すなわち、自然と人為という区別がその深淵をなしていると言えるだろうね。自然的現象と、人為的制度とは異なる、という基本的な世界理解だ。(p.129)

そのとおりで、自然現象には確固とした因果関係があると普通は思う。しかしよくよく考えてみると、それは怪しい。「因果関係は存在しない」とまで論じたヒュームを紹介し、素朴な因果関係の理解の浅さを浮き彫りにしていく。第3章では、では因果概念をどう捉えたらよいかについての、主として著者独自の理論が説明されていく。それは、まさに「べき=責任」を入れたかたちでの因果理解となっている。「~だったから~だった」という因果の理解には「~すべきだった(すべきでなかった)」という規範についての判断が入り込んでいる。本書を読んでみてほしいが、因果の常識的な考え方からはまず出てこない、面白い理論だと感じられた。

***

この本を手に取ったのは、「である/べき」についての疑問からだったと書いた。読み終えて、その疑問はどうなったか? 雑なまとめかたをしてしまうと、

  • 「である」から「べき」がどれくらい出てくるかを気にしていたのに、本気で哲学をすると、そもそも疑っていなかった「である」の下に「べき」が潜り込んでくることが分かった

となるだろうか。もうちょっと表層的な部分で考えが整理されることを期待していたのだが、本書を読んでさらに「とっちらかって」しまった、というのが正直な感想だ。でも、それが哲学というものなのだろうとも思う。

 

*1:実際の事例ではないのですが。