科学報道の真相: ジャーナリズムとマスメディア共同体 (ちくま新書1231)
- 作者: 瀬川至朗
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2017/01/05
- メディア: 新書
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もと新聞記者で今は大学でジャーナリズムを教える著者が、日本の科学報道の問題点を整理・分析した一冊。
「日本の科学報道の問題」と聞けば、単純化しすぎの健康番組とか、根拠に乏しい「医療系まとめサイト」などが思い浮かぶかもしれない。しかしこの本で扱われているのはもう少しレベルの高い話。主に大手新聞社の科学部の報道に焦点を当て、それが抱える「構造的な問題」が論じられている。
本書で取り上げられる具体例は、STAP事件、福島の原発事故、地球温暖化にまつわる報道の三つ。いずれも著者が現役記者を退いた2008年以降の話なので、記者時代の経験を生かしつつも外部者の視点での分析となっている。
前半の各章の内容を、個人的に面白いと感じた点を中心に要約すると、
- STAP騒動の報道では、Natureに論文が一本載った段階で「ノーベル賞受賞」のような報道をしてしまったことが問題だった。また、Nature誌のチェック機能の検証が十分ではなかった。(第1章)
- 福島第一原発の報道では、新聞における「炉心溶融」という言葉の使われ方などを分析してみると、東京電力や政府の発表を流す「大本営発表」だったことがわかる。(第2章)
- 地球温暖化問題の報道は、IPCCなどの公式発表に依拠している度合いが強く、米国に比べると日本は「温暖化懐疑論」の立場の報道が少ない。また、温暖化対策については、新聞社の科学部と経済部がそれぞれ環境省と経産省から別々に情報を仕入れていることから、新聞内で温度差のある報道が併存している。(第3章)
など。
この3事例をもとに、後半の章では、著者の考える科学報道の「構造的な問題」と処方箋が論じられている。指摘される構造的問題の一つは、情報発信者(科学者や官庁)と記者との共存関係(=「マスメディア共同体」)ができてしまっていること。もう一つは、報道の「客観性」や「公平・中立」という原則が不適切に使われていることだという。
第5章ではそうした原則がジャーナリズム一般において保持困難であるという議論を紹介し、そのうえで著者は代案を示している。
「客観報道」に代わる意義をもつ原則が「検証」であり、「公平・中立報道」に代わる意義をもつ原則が「独立性」であると、私は考える。
たとえば「客観性」を目指す科学報道は、「科学者(官庁)の発表を伝聞として流すだけ」ということにつながりかねない。また、「公平・中立」も、「懐疑論のようなマイナーな科学的立場をどこまで取り上げるのが中立といえるのか?」といった解決不能な問題を招く。それよりも、「検証」の方法論をしっかりすることと、情報源との「独立性」を確保することが必要だと著者は主張する。また、「公平・中立」などを求めてしまう原因として、「固い科学観」があることが指摘される。
科学ジャーナリストは、権力や権威に頼ることなく、研究者からの不適切なアプローチに自ら対抗できる力を身につける必要がある。また、科学は確実なものであるという「固い」科学観が日本の社会に広く流通しており、そのことが、マスメディアの科学報道を歪めている (序章)
***
各事例の分析は、単なる印象論を超える緻密さがあって説得力があった。後半の整理も納得感が高かった。日々、科学報道の担い手はもちろん受け手にとっても、本書で解説されているような「問題点」を把握しておくことは役に立つので、読んで損はない一冊だと思う。
一方、著者の主張する「固い科学観を脱する」「検証をしっかりする」「独立性を確保する」という方向性には賛成できても、現実問題としてすぐに舵を切るのは難しそうに感じた。メディア側には毎日記事を書くというノルマがあるし、科学者の側にもできるだけ研究を宣伝しなければというプレッシャーがあるので、両者とも「マスメディア共同体」から簡単には離れられないと思われるからだ。
そこで、マスメディアでも科学者でもない「第三者」が活躍できるのではないか、と思った。具体的には、それほど「マス」ではない特定の関心をもった層に対して、批判的視点を交えて科学的トピックを解説する、という活動に需要があるのではないか。媒体としては「書籍」や「ブログ」が適しているだろうか。
…このブログでこの前まで書いていた「記憶の脳科学」についての「探究メモ」で自分がやりたかったのもまさにそういうことだったな、などと思って、少し勇気が出てきた。