重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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再読メモ:日本の難点(宮台真司 著)

 

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

 

ふと思い立って、8年ぶりに読み直したこの本。

社会学者の宮台真司氏が、経済・政治・教育・就職・家族など日本の抱えるあらゆるジャンルの問題について、社会学の抽象的概念も活用しながら、切れ味よく論じている。最近、宮台さんがコメンテータとして出演するTBSラジオの番組を聞くようになったこともあって、「そういえば宮台さんの本を読んだことがあったな」と思い出し、実家から持ち帰って再読した。

この本が書かれた2009年初頭は、まだリーマンショックの記憶が生々しい時代。日本は民主党政権が誕生する直前。そして、アメリカではまさにオバマ政権が始まったばかりの時期。なので、「これからアメリカは良くなるだろうし、世界もよくなるかもしれない」という、今から思うとやや楽観的な予測も見られる。それでも、大筋では、今ラジオで宮台さんが語っていることとこの本の主張は変わっていないと感じた。むしろ、3.11や昨年の集団的自衛権の議論など、その後に起こったことを見たあとで読むことで、初読時よりむしろ理解しやすくなっていた。

 

宮台真司さんの書くものや、ラジオでの発言には、いつも軽い動揺を覚える。他の人からは受けることのない「感銘」のようなものがある。以下、その感覚について、言葉にしておきたいと思う。

宮台さんは普通の学者と違っている。社会全体を「理論」で掴み取るという、社会学者として稀有な力量の持ち主だからということもあると思うが、それだけではない。自分にとって宮台さんが唯一無二なのは、「学問的に突き詰めた分析」と「年配者からの説教的な発言」(本当は単なる説教ではないのだけど最初はそう聞こえる)を、両者の矛盾をきたさずに同時に発信しているからだ。

あるニュース(犯罪とか、不祥事とか、いじめとか)に対するリアクションとしては、「最近の○○はだめだ」などと誰かのモラルを責めるものと、「環境・システムの問題だ」などと原因を何らかの仕組みに求めるものの2種類がある。後者のほうが一般には知的だと思われていて、じっさい多くの学者とよばれる人たちは後者のタイプの発言をすることが多いように思う。

しかし宮台さんは、「ヘタレ」「浅ましい人間」「感情が劣化した人間」などという言葉遣いを連発する。とくに「恋愛やセックスに消極的になっている最近の若者」に対する、「君それじゃダメだよ」という目線の発言が多い。

このような物言いが自分に動揺をもたらすのは、言うまでもなく自分がその「ヘタレ」の類型に当てはまるからだ。『日本の難点』で言及される、「浅ましい印象を与える若者」とは、たとえば、「自分の人格の恒常性を保つべく――自分カワイさから――コミュニケーションがなされる印象」を与えるような若者だとされる。なぜそういう若者が量産されるかと言えば、この本に書いてあることを自分なりに意訳すれば、「郊外化」以前のご近所づきあいや、体育会などで経験するはずの「濃密なコミュニケーション」を経験しない若者が増えたから、ということになる。

大学生のころ、当時受講していたゼミの先生に食事に誘ってもらい、「君はこれからはもっと人とコミュニケーションをとらないといけないよ」と諭されたことがある。そのような機会がもっと頻繁にあればまた違った思うし、その一回で自ら奮起すべきだったとも思うが、もはやそんな本質的な忠告をしてくれる年齢ではなくなってしまった身としては、宮台さんの言っていることが身に染みてわかる。

さて、若者をヘタレ呼ばわりしたら、ふつうは「ほっておいてほしい」と返されるのではないだろうか。「あなたの価値基準では自分はヘタレかもしれないが、その価値基準を押し付けないでほしい」と。ふつうはこう言われたら、理屈では反論できない。だから、少しでも理知的であろうとする人は、「○○できない若者は悪くない、悪いのはシステムであり社会の構造だ」というタイプの発言を選ぶことになるのだと思う。でも、『日本の難点』を読めばわかるように、宮台さんは価値が相対的であることなど百も承知で言っている。ポストモダンという時代性を、最先端の社会学理論を熟知したうえで、正確に把捉しちえる。そうして、なぜ「浅ましい人間」を減らさなければならないかに理論的な根拠を用意したうえで、「説教」的な発言をしている。

しかし、心の内ではこれは皆わかっていることではないかと思う。つまり、ある社会問題が「システム」だけではなく、自分自身の「構え」にも問題があるのではないかということ。自分や周りの人が、もう少しモラルを内面化した、感情豊かな人間、要するに「器の大きな人間」であれば、もうちょっと社会が良くなるのではないかと。これは、インドやフィリピンのような国に行くと強烈に味わうことができる。そうした国では、すばらしいホスピタリティで迎えてくれる人もいる反面、日本ではありえないような「浅ましい!」人に遭遇することがある。こういう人々をメンバーとしている社会は、ものすごく大変だろうなと思ってしまう。逆に、日本以外の先進国に行ったときに、「浅ましさ」と逆ベクトルの人々に出会って恥じ入る思いをすることがある。

もちろん「人々のモラルを高めてよい社会を作ろう」というような単純な話ではない。そういう安易な発言は炎上して終わるのがオチだ。「モラルとは何か」「社会とは何か」について考え抜いたうえでないと、宮台さんのような発言はできない。だから、多くの知的さを目指す会話のなかでは、そうしたものはないことにされる。でも実際にはある。それを正面切って語れる宮台さんに――ときには少々メンタルを削られたとしても――これからも傾聴したい。