重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:〈わたし〉は脳に操られているのか (エリエザ―・スタンバーグ 著)

 

〈わたし〉は脳に操られているのか : 意識がアルゴリズムで解けないわけ

〈わたし〉は脳に操られているのか : 意識がアルゴリズムで解けないわけ

 

「自由意志」はあるのか、ないのか。

科学的な見方からすると、自由意志はなさそうだ。一方で、日常的な感覚からすると、自分に自由意志がないなどという考え方は受け入れにくい。このジレンマをどう解決するか。

先月邦訳が出た『〈わたし〉は脳に操られているのか』は、最近の科学の成果を紹介しながら、自由意志の何が問題なのか、どう解決できるのかを若手の神経科医が読み解いた一冊である。

自由意志はないのか? 

人間の行動を決めるのは脳であり、脳は物質でできている。物質は物理法則に従って動いているので、人間の行動は物理法則によってあらかじめ決められている。これが「決定論」の立場であり、ここには自由意志の入る隙間はない。科学の進歩で脳のことがよくわかるようになるにつれて、決定論的な見方はますます信憑性をもってくる。

一方、それが正しいはずがない、という感覚がある。自分の行動は自分が決めている。朝、「起きよう」という意志をもたなければ一日を無為に過ごすことになるし、ブログも頑張って書こうと思うから書けるのであって、自分の意志と無関係に勝手に文章が出来上がるとは思えない。

また、決定論がはびこると具体的に困るのは、責任を問えなくなることだ。犯罪を犯した人に「私は脳に操られていたのだ(=My brain made me do it)」という言い訳が通用してしまったら、その人を裁くことができなくなってしまう。

本書は、自由意志の問題でもとくに「道徳的意思決定」に焦点をあて、現代の科学と矛盾しない形で自由意志が存在するという見方は取れないのか、というスタンスで書かれている。 

決定論を支持する科学

本書前半では、自由意志に関係する医学的事実や心理実験がまとめられていく。

  • バーを押すという行動をとろうと「思う」より前に、被験者の脳内で「準備電位」が出ていることを明らかにした「リベットの実験」とその解釈。
  • トゥレット症候群、強迫性障害など、行動の意識的なコントロールができなくなる精神疾患
  • 前頭葉の損傷により、将来を見越した意思決定ができなくなってしまった症例と、そこに発想の一部を得たアントニオ・ダマシオのソマティックマーカー仮説。
  • 「○○をしよう」という意識の感覚は、実際の行動とは別のプロセスで生み出されている、つまり「自由意志は錯覚である」というダニエル・ウェグナーの説。
  • ニューロン活動から、サルの次の行動を予測できたとする実験。

これらはすべて、人間の意識はあてにならず、むしろ無意識のプロセスで決まっていることを示している。今後もこういう知見が増えていくことを考えれば、ますます「自由意志はない」ということになっていくのだろうか。

自由意志を救う議論:両立論

有力な反論に「両立論」がある。これは、決定論と自由意志は矛盾せず、両立可能だという考え方だ。著者はこの立場を説明するために、「自由」の意味には二つあるのだと説明する。つまり、自由を「自分の意志をコントロールできること」という意味にとれば決定論と自由意志は相いれない。一方、自由の意味を「行動選択時に他の選択肢が用意されていること」ととれば、自由意志は脳内プロセスが決定論的か否かに関係のない問題になる。

実は多くの科学者や哲学者はこの立場をとるらしい。本書に登場するガザニガやダマシオら「決定論」の証拠を集めている当の科学者たちも、両立論に頼ることによって「土壇場で自由意志を救おうとしている」という。

著者の立場は?

しかし、著者はあくまで前者の意味で、つまり、「自分の意志で脳内のプロセスをコントロールできる」という意味での自由意志があると言おうとする。

その論証のため、著者は「熟考」という概念を持ち出す。たとえば「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンが、自分の素性を明かして一人の罪人の命を救うべきか否かという葛藤をするような場面を想像してほしい、と著者はやや大げさな例を挙げて説明する。たしかにリベットの実験のような単純な行動決定は無意識が行い、「意識」は後付けされたかもしれない。しかし、このような熟考のプロセスはどうだろう。それはルールによって定められた「アルゴリズム」では決して解けないだろう。したがって、アルゴリズム、つまり決定論的なプロセス以外の仕組みが脳の中では働いているはずだ、と著者はいう。

決定論的なプロセスの候補として、著者は量子力学やカオスを引き合いに出してはいるが、具体的な説までには深めていない。たしかにこういう議論をする科学者(ペンローズやホフスタッターが思いつく)もいるので、完全に筋の悪い話ではないのだろうが、どうしても、ここの部分は具体性・説得力を欠いているように思えた。

終わりに

本書の中心的な主張に関しては歯切れの悪さを感じてしまった。それでも、科学の土壌で自由意志を救いたい、という著者の気持ちはよく伝わってきし、全体としては、自由意志にまつわる科学と哲学の論点がとてもよく整理されていて、良書だと感じた。

個人的には、やっぱり「両立論」が正しいと思える。私の考えはこんな感じだ。神経プロセスは決定論的であり、しかも人間の「意思」は一つの神経プロセスで生み出される(2元論はとらない)。でも、その一つ一つのプロセスはそれぞれ「宇宙開闢以来1回しか起こらないほど稀」なので、ある神経プロセスがどんな「意思」に対応するかは、原理的に予測不能である。なので、自由意志は、究極的には科学に扱える範疇の問題ではない。こんな風に考えるのが一番すっきりすると思うだが、どうだろうか。

補足:びっくりしたこと

この記事によると本書を書いた当時(2000年)の著者は22歳だったそうだ。日本の医学生ならまだ研修医にもなっていない年齢でこれを書いたとは驚いた。自分の研究について触れないのはなぜかと疑問に思っていたが、後から年齢のことを知ってうなづけた。しかし、この本のどこにも著者の生年などについての情報がなかったのは、営業判断からなのだろうか。