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読書メモ:認識とパタン(絶版)

 

認識とパタン (1978年) (岩波新書)

認識とパタン (1978年) (岩波新書)

 

先日『知るということ』を読み直したのをきっかけに、渡辺慧の著作をいろいろと集めてみています。そのなかの一冊を紹介したいと思います。

『認識とパタン』という、40年近く前に岩波新書として出された本です。

書名から想像されるように、これは「パターン認識※」についての本です。「パターン認識とはなんぞや」を一般向けに解説しつつ、工学を超えた哲学的な主張も込められています。話題が限定されているぶん、『知るということ』に比べてずっと入りやすい感じがしました。

※原著では「パタン」ですが、最近の一般的な表記に合わせて「パターン」としました。個人的にはパタンのほうが好きですが。

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全5章で構成されています。

1章にて、「パターン認識とは何か」という話から入ります。パターン認識とは、「個体を類に入れること」だと言います。「類」は、今の言葉で言えば「クラス」でしょうか。たとえば手書きの数字」(=個体)を「0~9までの数字」(=類)に割り振る、などです。そうした画像的なパターンだけでなく、言語を理解する、病気を診断する、科学の理論をつくるといった人間の思考は、すべて「パターン認識」の一種とみなせるのだと言います。さらに、「パターン」が「形相」という西洋哲学の中心的概念と結びついていることも指摘されます。

2章と3章では、ではそもそも「個体」や「類」とは何か、ということを吟味していきます。ここでの著者の主張は、「個体」も「類」も人間の価値観がつくるものだ、ということです。たとえば、個体を見るときすでに我々の脳では特定の信号処理がなされるだとか、類をつくる際に使われる「類似度」も、人間が自分の価値観に合うように恣意的に選んでいるのだ、ということが述べられます。後者についての議論のなかでは、Wikipediaなどにも載っている有名な「醜いアヒルの仔定理」を証明して見せたりもしています。

4章では、純粋に工学的なパターン認識の数理を解説します。クラスタリングと識別のための標準的な手法を手短に紹介し、著者が独自に開発した「部分空間法」という手法が紹介されています。

5章では、パターン認識の工学的手法が、人工知能の実現にどうつながっていくのかについて書いています。コンピュータは演繹は得意だが、帰納的な思考はできない。その理由について著者は、「知識の持ち方が違うから」というようなことを言っています。コンピュータの中では、知識は独立に保存されているだけだが、脳の中では、それぞれ有機的にネットワークをなしている。「パラディグマ的象徴」というちょっと難しい言葉を使っています。

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読み応えはあるし、良い本だと思います。ですが、一歩踏み込んで、「この本を『今』読むことにどれだけの意味があるか」ということを敢えて考えてみたいです。

本書の主張を私なりにまとめると、次のようになります。

  1. 人間のあらゆる思考はパターン認識である
  2. 人間の行うパターン認識にはすべて価値観が反映されている
  3. コンピュータで行うパターン認識にも人間の価値観が導入されている
  4. コンピュータと人間は知識の保有の仕方が違う。だから、コンピュータは人間のような帰納的推論や創造的思考ができない。

1~3はある意味当たり前だし、いまではすっかり常識になっていることだとも言えそうです。本書のメインディッシュ的内容とも言える「醜いアヒルの仔定理」も、「そりゃそうだよな」ということに定理の名前をつけただけだという感もなくもありません。

また、1~3と4が著者の中でどうつながっているのかが、よく分かりませんでした。コンピュータのパターン認識には人間の価値が反映されているというのは、その通りだと思います。そして、現状のコンピュータは人間とは違う方式で知識の所持していて、そのせいで人間並みのパターン認識はできない。それもその通りかもしれません。では、人工知能の研究としては何をすべきなの? という問いに対しては、

  • 人間とコンピュータは別物だと認めたうえで、人間の価値をコンピュータに組み込む努力を続ける

あるいは、

  • 知識の保持の仕方を人間の脳のようなものに変える

という二つのアプローチがありうるように思います。これは大事なポイントだと思うのですが、著者がどちらを構想していたのか、本書からは読み取れません。もし、この問題に対する解答が著者にないのであれば、もしかしたらこの本から今の機械学習の研究者が得るものはあまりないかもしれません。

もちろん、40年前の本にそれを期待するのは酷だとは思うのですが、「もしかしたら、渡辺慧のような人物なら答えをもっていたかもしれない」と期待してしまう自分がいます。

いろいろ書きましたが、人間の認識のあり方と機械がアルゴリズム的にやっていることをパラレルにとらえて、哲学のレベルで考察する、という姿勢自体は、今の時代でも大事なんじゃないかと思います。それを感じるためだけでも、復刊するくらいの価値はありそうに思いますが、どうでしょうか。