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読書メモなど

聴講メモ:SYNAPSE Salon #2 公開議論 「Sense of AI (人工知能、自我、表現)」

先週の土曜日に、下記のトークイベントに参加した。

(少なくとも僕などからすると)ものすごく豪華なメンバーが集い、人工知能をテーマに語り合うという会。非常に刺激的だった。

 以下、イベントに参加してなんとなく思いついたこと・浮かんだイメージを《トークの具体的な内容には全く触れずに》メモしておく。

***

アーティスト・プログラマ・脳科学者・ゲームデザイナ・情報学者など、これだけ多彩なメンバーが10人も揃って「人工知能」をテーマで話す。いろいろな話題が出てくる。話題が収束しそうでしなくて、発散するかと思いきや、誰かの発言をきっかけに共感が生まれたりもしている。議論に追いついていくのが精一杯で「いま何の話をしているんだっけ?」と、論点を見失うこともしばしば。この空中戦から何かをつかみ取ろうとするのだけど、脳の回転が足りない。もどかしいけど、刺激的。そんな体験だった。

このトークイベントで何かしら分かったことがあったとすれば、「人工知能を巡って人々は実にたくさんの別のことを考えているのだなあ」ということだった。

  • 人工知能は、コミュニケーションの本質をあぶり出すか (「他者」っぽさとはなにか)
  • 人工知能は、人間にとって新しい質感を生み出し、新たな芸術を生み出すか (新しいアートは可能か)
  • 人工知能は、人間の知的活動をどこまで代替するか (どこまでAI技術は便利になるか。あるいは、どこまで各人の専門性が不要になるか。)
  • 人工知能は、「知能とは何か」という問題を明らかにするための方法論となるか (脳を機械論的に理解する手段として、全脳の機能を模した人工知能を作れるか。)

これだけ多様な期待(と恐れ)を、僕らは人工知能に託している。そのことにあらためて気づくとともに、そのことこそが人工知能の魅力なのではないかと、ふと思った。

人工知能 Artificial Intelligence」という用語がミスリーディングであり、たとえば“narrow AI”と“general AI”、“weak AI”と“strong AI”のように、問題を切り分けた方が生産的だという意見にも一理あると思う。でも、「人工的に知能をつくる」という発想を持った時点で、互いにもつれあった上記のような諸論点が吹き出してしまうというのが、このテーマの性なのではないかという気もする。たとえば、チューリングの伝記などを読むとそんな気がする。