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読書メモなど

読書メモ:意識はいつ生まれるのか(ジュリオ・トノーニほか)

「Φ(ファイ)理論」で有名なジュリオ・トノーニを含む2名による、意識の脳科学の一般向け解説書。先月、イタリア語から直接訳された日本語版が出ている(どうやら英語版はまだ出ていない?)。

 

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論

 

 

 本書前半では、「なぜ意識の理論が必要なのか」という、研究のモチベーションの部分の説明に多くのページが割かれている。語り口は巧みだ。著者らが医学生だったころ、解剖実習にて初めて人の脳を手に持ったときに感じた、「なぜこの物質に、主観的な世界が宿るのだろう?」という戸惑い。そのときの経験をリアルに描写することで、読者を自然とその疑問に誘う。また、植物状態と見分けがつきにくい「ロックトイン症候群」などの症例を挙げて、意識の神経基盤を解明することの医学的意義も説明する。彼らの意識理論が、決して専門家たちだけのマニアックなものではなく、誰もが持ちうる疑問に関係するものであること、そして医学的にも重要なものであることが伝わってくる。

第5章にて、ようやくΦ理論(正式には「情報統合理論」と著者らが呼ぶ理論)がどういうものであるかが解説される。意識の理論をつくるときには「意識を宿してもよさそうなのに、意識を宿さないシステム」が手掛かりとなる。たとえば、大脳よりも多くの神経細胞を持ちながら意識を生み出す能力のない小脳(小脳を切除しても意識は保たれるのだそうだ)や、(ノンレム)睡眠時や麻酔下の脳は、意識を宿す脳(=覚醒時の、大脳皮質と視床からなるシステム)と何が違うのか。著者らは、それは「脳の中の情報の統合の度合い」であると推論する。より具体的には、そのシステムの中で表現できる情報の量であると言い、それをΦという数値で表す。このように定義したΦは、ニューロンシナプスの個数には単純に相関せず、そのネットワークの「複雑さ」を表現する量となる。この本ではΦの計算の仕方は説明されていないので詳しいことは分からないのだが、実際に小脳のΦは小さく、大脳では大きくなるような量であるらしい。

実際の脳の Φを厳密に測ることはほとんど不可能だが、著者らはΦを間接的に測る方法として、TMS(脳を磁気的に刺激する手法)と脳波測定を組み合わせた実験を行っている。すると、ノンレム睡眠時や麻酔下は小さいΦを持つことが示唆される結果が得られるそうだ。今後も検証を進め、Φ理論が反証を免れる理論なのかどうかを確かめていくということ。人間以外の動物でもΦを測る実験ができるようになるかもしれないという。

トノーニの理論については、クリストフ・コッホが著書で紹介していたり、日本の神経科学者の間でも話題になったいたので存在は知っていた。なにやら難しそうな印象だったが、本書を読んで、予想以上に堅実な研究として進められていることが分かった。また、本書はΦ理論のよき入門書であるだけでなく、意識の脳科学について分かりやすく書かれている。とくにΦ理論に興味がなくても、脳や意識について興味のある人にはお薦めできる一冊だ。

 

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この本を読んで思ったことを二つ書いておきたい。

一つは、Φ理論を現段階でどう捉えればよいかについて。本書の帯文には、「意識のナゾをついに解いたΦ理論」という文句があるが、「解いた」というのは明らかに言い過ぎだろう。意識が生じるために「複雑に情報を統合できるネットワークが必要である」ということは正しいと思う。しかし、そこから「複雑に情報を統合できるネットワークには意識が生じる」という仮説を出すところには相当飛躍がある。大脳皮質にしか意識が生じない理由は「情報の統合度合い」以外にも何かあるかもしれず、これは一つの有効な仮説に過ぎない。もちろん、だからといってΦ理論に意味がないわけではないし、オッカムの剃刀的にはそう考えるのが一番自然だとも思う。Φ理論はむしろ、意識研究を推進するための有効な作業仮説と捉えるべきだという印象を受けた。

もう一つは、Φ理論がハード・プロブレムと関係があるのかについて。先ほどの点とも重複するが、高いΦ値をもつ脳と意識状態の間に相関があるとしても、それは相関にとどまる。Φ値がすなわち「意識状態」を帰結するかどうかを知るには、結局は別の方法で意識があるかどうかを調べるしかないと思う。たとえば、電子回路で高いΦをもつようなネットワークを作ったとして、それが「意識」を持つかどうかは、(大森荘蔵も書いていたように)最終的にはそれが「意識をもっている他人」のように僕らに現れるかということで判断するしかないだろう(たとえば電子回路の高いΦ値だけをもってして、その回路に人権を認めなければならないという事態には決してならないはず。はじめから「意識あるもの」だと思われている人間の患者の意識判定と同列にはできない)。Φと意識状態の相関を調べるのは科学の手法として有用だと思うが、それと「主観的体験がいかに物質から生じるか」の問題とはあまり関係ないという気もする。この本を読んだ感想としてはむしろ、ハード・プロブレムは(僕がそれを正しく理解できているとして)科学的にも、そして哲学的にさえ「問題にしても仕方がないこと」なのではないかという気がしてきている。どうだろうか。