読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

rmaruy_blog

読書メモなど

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第3回:記憶はシナプスに宿るという統一見解〉

前回は「エングラム」という概念を紹介しました。記憶の研究者たちは、一貫して、このエングラム、つまり脳の中の記憶の物理的実体を探してきました。

エングラムの所在についての「統一見解」

では、エングラムの所在について、現在の脳科学はどう考えているのでしょうか。

一例として、2016年に出された次の論文を見てみます。

  • Mu-ming Poo. "What is memory? The present state of the engram." BMC biology 14.1 (2016): 40. (corresponding author Michele Pignatelli, Tomás J. Ryan, Susumu Tonegawa,corresponding author Tobias Bonhoeffer, Kelsey C. Martin, Andrii Rudenko, Li-Huei Tsai, Richard W. Tsien, Gord Fishell, Caitlin Mullins, J. Tiago Gonçalves, Matthew Shtrahman, Stephen T. Johnston, Fred H. Gage, Yang Dan, John Long, György Buzsáki, and Charles Stevens. )

この『記憶とは何か?エングラムの現況』と題された論文には、第一線の神経科学者たちが「エングラムはどこにあるか」についての意見を寄せています。寄稿者には利根川進氏の名もあります。編者のMu-ming Poo氏は、冒頭で次のように述べています。

There is a clear consensus on where the memory engram is stored—specific assemblies of synapses activated or formed during memory acquisition—and a substantial body of knowledge on how the engram is generated and maintained in the brain. However, knowing the building blocks and their properties is far from understanding the architecture of the “memory palace”. (粗訳:記憶エングラムがどこに貯蔵されているかに関しては明確なコンセンサスが存在する。それは、エングラムは記憶の獲得時に活性化あるいは形成される特定のシナプスの集合にある、というものである。また、エングラムが脳内でどのように生成され、保持されるのかに関しても、多くの体系化された知識が得られている。しかしながら、エングラムの部品やその性質を知ることと、「記憶の宮殿」のアーキテクチャを知ることはまったく別である。)

前半部分を読むと、「エングラムはシナプスの集団に存在する」という見方がコンセンサスになっているとされています。

説明は不要だと思いますが、シナプスとは、神経細胞ニューロン)間の結合部のことです。シナプスは可塑性、つまり、様々な条件によってその強度を変える性質が知られています。シナプスの「強度」とは、ニューロンが隣のニューロンに信号を伝えるときの伝わりやすさのことです。このメカニズムを通して、脳は記憶をシナプス強度のパターンとして保持することができます。これが、現在の神経科学者たちの一致した見解となっているようです。

ここで「記憶の種類」や「生物種」についての限定がないことは特筆すべきと思います。つまり、このメカニズムは潜在的記憶/顕在的記憶、短期記憶/長期記憶、非脊椎動物の記憶/哺乳類の記憶といった区別を問わず、あらゆる記憶に共通するものなのです。これはなかなかすごいことで、この機構は、「生物の体は細胞でできている」「遺伝情報はDNAで伝達される」などと並ぶような、生物学の中でもとくに普遍性の高い原理と言えるかもしれません。

もちろん、先の引用の後半でMu-ming Poo氏も述べているとおり、「シナプス可塑性が記憶を支えている」という事実だけをもってして記憶が「解明」されたことにはなりません。たとえば、自動車が走る仕組みを説明する際、「ガソリンが必要」というだけでは不十分で、「エンジンの構造」や「燃料の化学エネルギーが力学的エネルギーに変換される仕組み」を説明しなければなりません。それと同じで、

  • シナプスの集合は、具体的に、どのように記憶を形成しているのか?

が次なる疑問となります。そこのところを、利根川氏はじめ第一線の研究者たちがどう考えているのかを調べるのが、この連載の終盤での主題になると思います。

そこに行く前に、ここでちょっと立ち止まって、次のことも押さえておきたいです。

  • なぜそれシナプス可塑性が記憶のメカニズムだということ)が言えるのか?

つまり、どんな実験事実を根拠に「シナプス可塑性が記憶を支える」ということが定説になったのでしょうか。それ以外の可能性は本当に排除されたと言えるのでしょうか。

シナプス説 vs 分子説

ある脳内現象がエングラムであると言えるためには、人(や動物)の経験に応じて、その現象が何らかの変更を受け、その変更をあとから何らかの方法で読み出せる、ということが必要です。第1回では、フォン・ノイマンが「記憶装置」の候補として様々な可能性を列挙したことを紹介しましたが、ノイマンの書きぶりからは、当時はとくに「シナプス説」が有力というわけではなかったことが窺えます。

シナプス説が常識になる以前、それに並ぶ仮説として「分子説」というものがあったそうです。これは、記憶が脳内の「分子」に蓄えられているという考え方で、DNAの発見に大きく影響を受けています。遺伝情報がDNAという巨大分子によって担われているのと同じように、脳内の記憶も、何らかの分子が担っているのではないかという発想です。とくに1960年代から70年代にかけては、細胞内のRNA分子が記憶の貯蔵に関与しているのではないか、という説が検討されていました。

なかでも興味深いのは「記憶の転移(memory transfer)」に関する研究です。これは、ある記憶が記銘されているRNAを他の動物に注入することでその記憶を移すことができる、というアイディアでした。たとえば、1962年にMcConnellという人は、扁形動物のプラナリアに条件付け学習を行い、その体を別のプラナリアの個体に食べさせて移植する、という実験を行いました。すると、驚くべきことに、もとの個体の学習結果が継承されました。こうした研究成果をもって「RNA=記憶分子」ではないかという機運が高まったそうなのですが、その後、McConnellの実験を含め、一連の研究の解釈に誤りがあったことが判明します。たとえば、プラナリアRNA移植の実験は、移植操作自体によって学習が転移したかのような効果が出てしまっていた、と解釈されているそうです*1

分子説は棄却されたのか

RNAが記憶分子であるという考え方はおおむね否定されました。それでは、「エングラム=分子」説は、全体として棄却されたと言えるのでしょうか。

二つの意味で、そうではないと思います。

第一に、依然として「記憶分子」が存在する可能性が残されています。例えば前述の"What is Memory"論文のなかで、Andrii RudenkoとLi-Huei Tsaiらは、ニューロンの核の中にあるDNAのエピジェネティックな修飾が、記憶を担っている可能性があることを提唱しています。これは「分子説の見事な復活」とも言えるかと思います。

第二に、シナプス説と分子説は必ずしも矛盾するものではない」ということがあります。

このことをはっきり書いているのが、『脳の可塑性と記憶』という本です。 

脳の可塑性と記憶 (岩波現代文庫)

脳の可塑性と記憶 (岩波現代文庫)

 

この本は、昭和の神経科学者、塚原仲晃(つかはら・なかあきら)氏が30年ほど前に書いたものです(2010年に岩波書店から復刊)。実は著者が執筆途中で御巣鷹山の墜落機に乗り合わせたため死去し、一部の章が未完に終わっています。非常に分かりやすく、かつ詳細に記憶の脳科学を解説しており、「こんな学識の高い神経科学者がいたのか!」と驚きます。この本の現代版を、ぜひどなたかに書いていただきたいです。(そうすれば、このブログは不要になります(汗)。)

説明の「階層」

さて、実は記憶の「分子説」「シナプス説」という言葉遣いは、実はこの本に倣ったものでした。塚原は、両方の説について説明したうえで、両者が必ずしも矛盾しないと言います。

記憶の分子説とシナプス説との論争は、かつての光の粒子説と波動説に似た情況にあるといえようか。(…)量子力学の登場は、まったく異なる次元でこの二つの対立を止揚したのである。(…)同様に、シナプスとは脳における物質=分子の存在様式であり、これがその物質=分子と切り離しては考えられないからである。(…)ただ、この二つの説は、いまだ統一的に説明されるレベルにまで到達していない。統一されるためには、それぞれの立場での問題点が浮き彫りにされなければならないからである。(p.101)

量子力学を引き合いに出してちょっと高尚な感じに書いていますが、ここで著者が言おうとしているのは、具体的には、記憶の説明には分子のレベルの説明とシナプスのレベルの説明があり、両立し得るということです。これは、シナプスの現象も、さらに細かく見れば分子の現象として記述できるからです。さらに以下のように続けています。

脳を研究する上で分離できるいくつかの階層がある。それぞれの階層には、基本的素子が存在していて、神経細胞やそのシナプスは一つの基本的な階層であり、また蛋白質核酸といった分子はその下の階層での構成要素である。ことの順番からいえば、記憶が神経細胞のレベルで明らかにならないで、分子のレベルで明らかになることはありえないのであって、ひとまず神経細胞のレベルで把握された上で、その分子的機序が明らかにされたとき、はじめて光の粒子説と波動説とが統一されたような形で終結するのではあるまいかと考えられるのである。

そして当然、階層はシナプスでは終わりません。

しかし、シナプスの可塑性が記憶とか学習へつながっていくためには、次の階層、すなわち神経回路網のレベルでの可塑性が問題になる。(p.102)

このように、「階層」というのはとても大事な考え方だと思います。極言すれば、脳内現象のあらゆる階層それぞれにエングラムが見出せるのかもしれません。

おわりに

以上の塚原の論点を踏まえて、最初に述べた「シナプス可塑性=エングラム」という「統一見解」にあらためて戻ってみます。すると、これはつまり、

数ある階層のうち、少なくとも「シナプスのレベル」では、シナプス可塑性がエングラムとなっている

ということだと解釈できます。他の階層のことは分からないけれども、少なくともシナプスという階層において、普遍的な記憶のメカニズムが存在している、ということなのだと思います。

シナプス可塑性が学習や記憶に重要だということを確証したのは、1970年代以降の一連の研究でした。次回はその流れを見ていきたいと思います。

*1:Chapouthier, Georges. "From the search for a molecular code of memory to the role of neurotransmitters: a historical perspective." Neural plasticity 11.3-4 (2004): 151-158.

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第2回:エングラムとは何か〉

前回フォン・ノイマン著作を取り上げ、彼が「脳の「記憶装置」は何か?」を問うたことを紹介しました。ノイマンはコンピュータから発想したので、「記憶装置」(原文だとおそらく単に“memory”=メモリ)という言い方をしていましたが、神経科学の本でよく使われているのは記憶痕跡(memory trace)、あるいはエングラム(engram)という言葉です。

「エングラム」は聞き慣れない言葉ですが、20世紀前半のドイツの生物学者、リチャード・ジーモン(Richard Semon)による造語だそうです。『つながる脳科学』(講談社、2016)で利根川進氏は次のように解説しています。

ジーモンが名づけた「エングラム(記憶の痕跡)」とは、記憶に伴う脳内の変化のことです。記憶そのものの情報といってもいいでしょう。エングラムという言葉は、おそらくデザインを石などに刻む、彫刻する」という意味の英語「engrave」からの造語です。(p.24)

つまりエングラムとは脳の中の記憶の物理的実体のことであり、ノイマンの「記憶装置」と同じものだと思ってよさそうです。ちなみに、同書ではこの引用箇所のすぐあとで、利根川氏は

そのエングラムを保持するニューロン群、「エングラムセル」を〔私たちが〕発見しました

と続けているのですが、その話はまたあとで。

「エングラム」とはいかなる概念か

ここでちょっと気になるのが、エングラムという概念の定義です。エングラムという言葉が初めて登場するのは、1921年のジーモンの論文の中だと言われています。

しかし、脳の中に記憶の物質的実体があるという考え方自体は、ジーモン以前からあったようです。そうした考え方の元祖として、解説書でよく出てくるのはデカルトです。たとえば、池谷裕二氏の『記憶力を強くする』(講談社ブルーバックス、2001年)では、デカルトが『情念論』という本のなかで「記憶の痕跡」について語っていることが紹介されています。デカルトは記憶痕跡を脳の中の「気孔」や「精気」といったものの働きとして説明しており、池谷氏はこれをシナプス可塑性を先取りした考え方だとして注目しています(『記憶力を強くする』p.148あたり)。

 

記憶力を強くする―最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方 (ブルーバックス)
 

脳の中に記憶の痕跡があるという考え方が、少なくともデカルトの時代からあったなら、なぜわざわざそれに学術用語を割り当てる必要があったのでしょうか。ジーモンの記憶理論を詳しく論じた、次の論文を見つけたので読んでみました。

Schacter, Daniel L., James Eric Eich, and Endel Tulving. "Richard Semon's theory of memory." Journal of Verbal Learning and Verbal Behavior 17.6 (1978): 721-743.

出版が1978年とかなり古いものですが、著者のダニエル・シャクターはジーモンについての伝記(“Forgotten ideas, neglected pioneers: Richard Semon and the story of memory”, 2001)の著者でもある神経科学者、また、共著者のエンデル・タルヴィングは「エピソード記憶」の概念の提唱者として有名な人です。

この論文では、まず、「エングラム」はメモリートレース(=記憶痕跡)と同義である、ということが書かれています。ジーモンはよく「忘れられた研究者」(シャクターの著書のタイトルでも“neglected pioneers”とされています)と言われるのですが、その理由の一つが、「エングラム」など独自の用語を作りすぎたからではないか、と著者らは推測しています。

そのほか、この論文を読んで分かるのは次のことでした。 

  1. 当時は、記憶が物質的であるということは常識ではなかった。記憶の実体がphysicalなものかpsychicalなものか、という未決着の論争があった。
  2. ジーモンは単に「エングラム」という言葉をつくっただけでなく、記憶のメカニズムについての具体的な理論を提唱していた。とくに記憶の「想起(retrieval)」のプロセスに着目した点で当時としては新しく、今日の記憶研究を先取りする考え方だった。

1.のpsychicalというのは、心的、あるいは霊的と訳せばよいでしょうか。つまり、20世紀初頭においては、「脳がすべて物質の働きで説明できる」という考え方はそれほど自明ではなかった。そのため、物質的な記憶痕跡、つまり「エングラム」の存在自体が、仮説(セオリー)と言える状態だったようです。

2.の点においては、ジーモンは記憶の本質を捉えていました。しかし、肝心の「エングラムの正体」については、彼は憶測を述べるのを避けたそうです。

Semon declined to hypothesize about the precise form of this biological storage, arguing that in the limited state of then contemporary physiology, such speculation was unwarranted. (粗訳:ジーモンは、この生物学的な〔記憶の〕貯蔵の具体的な形式については、仮説を立てることはしなかった。当時の生理学の限定的な状況では、そうした推測を裏付けることはできない、と彼は主張した。)

「エングラム」という言葉は残った

ジーモンの理論は、シャクターら一部の研究者を除いてはあまり省みられることなく、忘れられました。しかし彼の作った「エングラム」という用語だけは残り、神経科学の標準的なボキャブラリーとして定着したようです。

記憶の研究者たちは一貫して、この「エングラム」を探してきたと言えます。じっさい、Google scholarで調べてみると、時代ごとの記憶研究の第一人者たちが、以下のような「エングラムは見つかったのか?」というようなレビュー論文を書いています。

  • Lashley, Karl S. "In search of the engram." (1950).
  • Thompson, Richard F. "The search for the engram." American Psychologist 31.3 (1976): 209.
  • Ledoux, Joseph E. "The Continuing Search for the Engram." Psyccritiques 30.3 (1985): 202.
  • Josselyn, Sheena A., Stefan Köhler, and Paul W. Frankland. "Finding the engram." Nature Reviews Neuroscience 16.9 (2015): 521-534.
  • Eichenbaum, Howard. "Still searching for the engram." Learning & behavior 44.3 (2016): 209-222.

ジーモンの論文から95年が経った2016年ですら、“still searching for the engram"なのが面白いと思いました。

おわりに

長々書いてきましたが、今回わかったことは、結局

「エングラム」には「記憶の痕跡」という以上の深い意味はない

ということでした*1。特殊な意味を持たないからこそ、100年近く生き延びてきたのかもしれません。

では、研究者たちはエングラムをどう探求してきたのか。神経科学者たちのコンセンサスとなっている見方を、次回は探っていきたいと思います。

*1:ただ一つ思ったのは、「痕跡」というと静的なイメージがあり、なんらかのダイナミクスのなかに記憶があるという可能性を暗黙のうちに除外してしまっていて、その点、「エングラ厶」という言葉は余計なニュアンスを含まないのが良いのかもしれません。このあたりはぜひ研究者の方の意見を聞いてみたいところです。

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第1回:フォン・ノイマンの考えたこと〉

見切り発車ぎみにスタートした本連載ですが、何はともあれ書いていきたいと思います。

前回の「第0回」では、やりたいことの概要を説明しました。あらためて、本連載を通して分かりたいのは次のようなことです。

「過去のエピソードなどをヒトの脳が記憶する仕組み」を、いまの脳科学はどれくらい解明しているのか?

前回触れたように、最近では「記憶を操作することに成功した」などとする研究発表が出てきており、そうした研究が何を達成しているのかを知ることが、ひとまずこの問いの答えになると思われます。ゆくゆくは最先端の研究の中身を見ていきたいのですが、その前に、準備というか、回り道をしたいと思っています。

「記憶を解明するとはどういうことか」をもう少し考えておきたいのです。そうしないと、最新の研究成果をうまく解釈できないと思うからです。プレスリリースなどでは、たいてい、「Aという条件でBという結果が得られました」という具体的な実験事実に対して、「初めて記憶の仕組みを解明!」といった分かりやすい見出しがつけれられます。しかし、ここで前者から後者がどれくらい言えているかを判断するには、そもそものゴール(=記憶を解明する)がどういうことなのかを、自分なりによくよく考えておく必要があると思います。さもないと「へえ、すごい! でも、記憶一般について何がわかったのか、今一つわからない…」という感想で終わってしまいかねません。

そこで、やや回りくどくなってしまいますが、最初の1,2回(3,4回になってしまうかもしれませんが…)は、やや古めの文献を参考にしながら、記憶の仕組みについての考え方について、少し考えてみたいと思います。

*なお、本記事の趣旨に照らせば、脳についての解剖学や生理学の基本から始めるのが自然なのかもしれません。たしかに、脳の構造とか、神経細胞の性質とか、神経科学の基本的な実験手法について知らないと、最先端の研究の理解はおぼつかないと思います。じっさい、記憶の脳科学を扱う科学書は、すべてそうした説明から始まります。脳は大脳と小脳とがあって、神経細胞には細胞体と軸索と樹状突起があって、シナプスがあって、などです。ですが、本ブログでは、正確に書ける自信がないこと、多くの教科書やウェブサイトで解説を参照できることから、そうした記述は省く予定です。

コンピュータと比較する、という方法

いっそのこと、脳科学について何も知らないと仮定してみてはどうでしょうか。前提知識を持たずに、「脳の記憶の仕組みを解明したい」と思った人は、どこから考え始めることになるでしょうか。

現代の技術的環境の中で生きる人なら、誰しもまずは「コンピュータのメモリ」になぞらえて記憶を理解したくなるのではないでしょうか。私たちは、コンピュータがどのように「記憶」しているのかを「理解している」と言えます。ならば、脳とコンピュータを比較して、コンピュータの仕組みと脳の仕組みを対応づけることができれば、脳の記憶も解明できるのではないかと思えます。

コンピュータの父、フォン・ノイマンもそう考えたようです。彼の遺作に、『計算機と脳』(ちくま学芸文庫、2011)という薄い本があります。ノイマンが1957年に亡くなる1年前、大学での講義用に準備していた未完成の講義録だそうです。この本の前半部でノイマンはコンピュータの基本的な機構の解説をし、後半では、それと脳の機構を比較しています。筆者は本書に出会ったとき、ノイマンが脳に並々ならぬ興味をもっていたということに感動を覚えました。卓越した数学者・計算機科学者であったノイマンも、「心」に強い関心があったようです。

 

計算機と脳 (ちくま学芸文庫)

計算機と脳 (ちくま学芸文庫)

 

この本ではコンピュータと脳の「計算能力」全般が主題となっていますが、そのなかでもノイマンは「脳の記憶装置が何なのか」に強い関心を向けています。ノイマンが考案したプログラム内蔵型(=ノイマン型)コンピュータにとって、記憶装置が本質的に重要だったからです。

ちなみに、ノイマンが本書を書いた1956年は、脳の記憶メカニズムについてほとんど何もわかっていなかったと言ってよいと思います。たとえば、海馬が記憶形成に重要な役割を果たしていることを明らかした、有名な「患者HM」の論文(Scoville&Milner)が出たのが、その翌年の1957年です。いまでは常識となっている実験事実も得られていなかった当時、天才フォン・ノイマンは、脳の記憶の仕組みについてどんな考察をしたのでしょうか。

フォン・ノイマンの考察

さすがに、神経細胞が脳の動作の基本的なパーツであることは、ノイマンも知っていました。

神経系の基本素子は神経細胞、すなわち「ニューロン」であり、ニューロンの通常の機能は神経インパルスを発生・伝播させることだ。(p.73)

コンピュータの基本的な素子が真空管トランジスタであるのに対し、脳の素子はニューロンです。また、「脳の中に記憶装置がある」ということをノイマンは議論の前提にしています。

神経系内に記憶装置――あるいは、複数の記憶装置かもしれない――が存在することは推測の域を出ないが、人工の計算自動機械(オートマトン)から私たちが得た経験はすべて、その存在を示唆し、裏付けている (p.94)

ところが、それが何かは全く分かっていない。

ギリシア人は心が横隔膜にあると考えたが、記憶装置の特質と位置に関しては、私たちのもつ知識もギリシア人並みに乏しい。(p.94)

そのうえで、ノイマンは「記憶の様々な物理的実体の候補」を挙げていきます。たとえば、

  • 種々の神経細胞閾値が(…)は、その細胞に応じて時間とともに変わるという説がある。(…)これが正しければ、記憶は刺激基準の変動に等しいことになる。(p.94)

そのほか、

  • 神経細胞の接続が時間とともに変化し、それが記憶になる
  • 遺伝にかかわる記憶系が存在する可能性もある
  • ある部位の化学組成の特徴が永続的なもので、したがって記憶素子であることもありうる
  • 互いに刺激しあう神経細胞の系(真空管トランジスタでつくられる「フリップフロップ回路」に相当する仕組み)

などを挙げてみせます。一方のコンピュータはどうかというと、アメリカ初の電子計算機ENIACは一次記憶装置としてフリップフロップ回路のみに頼った。しかし、「「基本的な能動素子でできている記憶装置」と呼ぶにふさわしい記憶装置は、どう考えようと、非常に高くつく」ため、「今日の計算機は … 静電系(陰極線管)、強磁性コアの集合体などが記憶装置になっている」(p.100)と言います。ここで「高くつく」とは、詳しく書かれてはいないのですが、「スペースを食う」とか「エネルギー効率が悪い」とかいうことだと思います。

ノイマンは一連の考察を、

こうした事柄は、神経系の構造を理解する上で非常に重要に思えるが、今のところ、ほとんどが未解明のままになっているようだ。(p.100)

と締めくくっています。

このように、ノイマンはいろいろ考察を巡らせたうえで、結論を出さず(出せず)に終わっているわけですが、上記のような、あらゆる可能性を除外しない考え方は興味深いものだと思います。

ちなみに、ノイマンが挙げている「可能な記憶の実体」の中に、シナプス可塑性に相当するものが含まれていることは注意を引きます。これは、1949年にドナルド・ヘブが提唱した仮説を踏まえたものだと思われます。ヘブの仮説についてはいずれ取り上げることになると思います。

 

 

フォン・ノイマンが亡くなって60年がたった今、どこまで彼の疑問は解決されたのでしょうか。彼が挙げた様々な可能性の中に、正解はあったのか、あるいはまだ決着がついていないのでしょうか。筆者には今のところわかりませんが、それを今後調べていきたいと思います。

次回は、記憶研究のキーワードとなっている「エングラム」を取り上げます。

 

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第0回:連載を始めるにあたって〉

このブログは、筆者が趣味で読んだ本(たいていは一般向けの科学書・哲学書)の感想を中心に、備忘録として書いているものです。

このあと数回の投稿では、特定の本の紹介ではなく、ある一つのテーマの文献をあれこれ調べ、自分なりに分かったことを書いていきたいと思います。

テーマは、「記憶の脳科学です。

今回は「第0回」として、なぜこのテーマで記事を書こうかと思ったかと、自分なりの問題意識および方法について述べます。

f:id:rmaruy:20170207075558j:plain

記憶研究が今、すごいことになっている?

筆者は、学生のころから「記憶の脳科学」へ関心がありました。大学院で在席していた研究室は、脳の海馬を対象とした理論研究をテーマの一つとしており、ネズミの脳を使って記憶(など)の研究をしている生物系の研究室と一緒に、論文や教科書を読んだりしていました。5年前に大学院を出てからしばらく遠ざかっていたのですが、いま改めてこの分野の状況を知りたくなりました。

というのも、最近、この分野で目を引く研究成果によく出くわすようになったからです。近年、下記のようなプレスリリースが出されています。

これらの見出しからは、記憶研究な相当な段階まできていることが分かります。

また、昨年出版された『つながる脳科学』(講談社)の中で、利根川進氏は次のように書いています。

記憶の研究は、「新しい時代(new era)」に入った、と言われています。かつては、非常に大雑把な方法でしか記憶の研究はできませんでした。それが今では、非常に正確かつ精密に研究できるようになっていますし、しかも細胞レベル、遺伝子レベルで記憶を操作できるようにまでなったのです。(p.56)

記憶の仕組みの解明だけでなく、記憶を消したり、書き換えたりといった、SFのような話が現実化しようとしていると言います。

しかし、こうした表現に、筆者は若干違和感を覚えたのも事実です。

筆者が一学生として脳研究をフォローしていたのは5年ほど前です。あくまで個人的見解となりますが、当時、脳が記憶する仕組みは「ほとんど分かっていない」段階にあったと言っていいと思います。いかに実験手法のイノベーションが起こっているとは言っても、たった数年でそこまで大きな変化があるとは思えません。

とはいえ、研究者たちが嘘の発表をしているわけではないとすれば、どういうことなのか。答えは当然、プレスリリースの見出しの背後にあるディテールの部分にあるわけです。じっさい、上であげたプレスリリースの本文を読むと、これらの研究が明らかにしたことは記憶の一側面であり、ある特定の実験動物の、特定の種類の記憶のみを扱ったものであることがわかります。なので、さきほどの利根川先生の言葉やプレスリリースの見出しから私たちが受ける印象ほどには、分かっていること多くないと考えられます。

そこで、一度立ち止まって、いまどこまで記憶が解明されているのかを、一素人の目線で見定めてみたい、と思いました。

記憶を解明するとは?

一口に「記憶を解明する」と書きましたが、これだけだと意味が曖昧です。記憶には心理学的にいくつもの種類があるし、どのような説明をもって分かりたいか、ということにもいくつかの選択肢があるためです。

このブログでは、仮に、記憶研究の最終目標を次のことだとしてみます。

「過去の具体的なエピソードの記憶がヒトの脳内でどのように表現されているかを、それを自由に書き換えられるくらいの精度で解明する」

たとえば、「私は朝ごはんに納豆を食べた」や「私は大学の卒業旅行でインドに行った」という記憶は、脳内の何らかの機構で保持されているはずで、それを思い出すことに対応する何らかの脳内活動があるはずです。(そんな対応があることは自明じゃないという哲学の議論もありえますが、ここではおいておきます。)

ここでコンピュータと比べたくなります。人間の設計したコンピュータなら、メモリを書き換えることで、自由に記憶を書き換えり消去したりできます。

f:id:rmaruy:20170207082149j:plain

これと同じことを、電気刺激や薬物を使って脳でできるためには、コンピュータのメモリの仕組みと同じくらいの精度で、脳内の記憶のメカニズムについて知る必要があると思います(むしろ、それができたことをもって、記憶のメカニズムが解明されたとなるのかもしれません)。

f:id:rmaruy:20170207082206j:plain

数時間前の朝ごはんのメニューや、数年前の旅行先といった、個別の記憶の在り処を突き止めるのを最終到達点としたとき、今の脳科学はどこまでそこに接近しているのか。

そんな大雑把な問いを出発点に、少し勉強してみようという趣旨の試みになります。

今後の記事でやりたいこと

資料としては、一般向けに書かれた科学書、プレスリリース、無料で公開されている総説論文などを使う予定です。原論文には、一部を除いて原則として当たらないと思います。理由は、アクセスしづらいことと、筆者に読み込む力量がないことです。

また、専門家のチェックを受けずに書くので、間違った解釈で書いてしまう可能性がかなりあります。高望みにすぎると思いますが、もしこのブログを読んでくれた専門家の方がいて、内容への訂正や指摘をいただけたら大変嬉しいです。

一方で、一般の読者が普段見ないようなものにも目を通すことには心がけるつもりです。そのことで、1次情報としての研究成果が、一般向けに広報されていく過程でどのように加工されていくか(=盛られていくか)を浮き彫りすることはできるかも、と期待しています。

具体的に扱いたいと思っているのは、下記のような内容です。

  • 記憶研究の中心的仮説とされる「セルアセンブリ仮説」とは何か
  • 記憶改変の技術はどこまで進んでいるか
  • 人工知能の「記憶」は脳の記憶をどこまで模倣しているか
  • 記憶研究の第一人者たちは、どのように解説しているか

これらに「答えを出す」というよりは、「調べて分かったこと/分からなかったことを羅列する」という形になると思います。

どこまでできるか分かりませんが、もし読んでくれる方が一人でもいたら嬉しいです。

 

 

 

読書メモ(再掲):The Myth of Mirror Neurons (by Gregory Hickok)

 

The Myth of Mirror Neurons: The Real Neuroscience of Communication and Cognition

The Myth of Mirror Neurons: The Real Neuroscience of Communication and Cognition

 

 2014年に読んだこの本。著者のツイートによると、最近、立て続けにポーランド語版と中国語版が出たようです。

 

 

相次いで翻訳版が出ていることは、「ミラーニューロン」概念に対する批判的な見方が一般的になってきたことを示しているのでしょうか。日本語版が出る予定があるのかはわかりませんが、日本でもこうした議論が広まると面白いのではないかと思います。以下、前のブログに書いた感想を載せておきます。

 

 

*2014年9月のブログ記事を再掲

The Myth of Mirror Neurons 読了.

ミラーニューロン神話」というタイトルだが,ミラーニューロンを全否定する本ではなかった.ミラーニューロンは確かに「ある」し,脳を理解するうえでの重要な手がかりともなりうる.ただし,ミラーニューロンの機能についての拡大しすぎた解釈には問題がある.本書での著者の立場は,大体そんな感じだったように思う.

著者は,脳の発話や言語処理の専門家.はじめは遠くからミラーニューロンブームを見ていたのだが,次第に自分の専門である「言語」にもミラーニューロン理論が入り込んでくるようになり,段々と無視できない存在になってきたという.そこで,過去の文献を調査し,分かったことをブログに書き始めるなどしていたところ,「ミラーニューロンってなんか釈然としないな」という漠然とした疑問は,次第にミラーニューロンの通念は間違っているという確信になった.それが本書に結実した,ということらしい.

ただ,最終章で,

This book isn't just a barn-kicking excersise. 

(これは単に理論をぶち壊すだけのための本じゃない.)

とあるように,必ずしもミラーニューロンの研究成果や考え方を否定してはいない.ミラーニューロンにまつわる実験について冷静にレビューして,そこから何が言えて何がいえないのかをしっかり考えた本だった.

 

【内容】

1章

ミラーニューロン理論の基になっているのは,1992年にイタリア・パルマ大学のグループによって偶然に発見されたある一つの現象である.すなわち,サルが何かの行動をするときに発火するニューロンが,同じ行動を他者をするのを見ただけでも発火する.1996年には,同グループにより実験結果が再現されるとともに,この現象を示す細胞が「ミラーニューロン」と命名される.

2章
ラマチャンドラン氏がミラーニューロンを「DNAに匹敵する大発見」と表現するなど,ミラーニューロン理論は一躍,注目を集める.ミラーニューロンはマカクザルの「F5」という部位に見つかったのだが,それは,ヒトでいうと言語をつかさどるブローカ野に相当する.そこから,心理学や精神医学におよぶ「理論」に発展する.それは,ミラーニューロンは,人が他人を心を理解する能力(心の理論)や,言語の獲得のメカニズムのカギになっているのではないかというもの.自閉症の原因がミラーニューロンが正常に働いていないことにあるのではないかなど,具体的な症状や病気についての仮説も多く生まれる.

3章
ヒトにもミラーニューロンがあるらしいということが分かってくる.2009年にはfMRI habituation experimentという手法を使った実験によって,ヒトにもマカクザルと同じ意味でのミラーシステムがあるという,割と直接的な証拠が見つかった(実験の手法が異なりニューロンレベルでは確かめられていないため,「システム」という言葉が使われる).ただ,著者に言わせれば,他人の行動に応じて自分の行動を決める人間の脳に,なんらかの 「ミラーシステム」にあるのは論理的に当たり前.問題は,むしろ「ミラーシステムはなにをしているのか」という,解釈の部分にある.

4章
ミラーニューロンは行動の”理解”するためのメカニズムである」というミラーニューロン理論には,それと寄り添わない「アノマリー」が事象がいくつもある.例えば,

  • 発話の理解には,発話能力は必要ないことが知られている
  • メビウス症候群という表情を作れない症状をもつ人も,他人の表情を読み取ることができる
  • ミラーシステムは可塑性がある.
  • ミラーニューロンが「理解」をつかさどるとすると,これまで知られてきた脳の解剖学的な機能区分と齟齬をきたす

など.これらのアノマリーは,どれもミラーニューロン理論を捨て去る決定打にはならないものの,これだけ多いとなれば,別理論を考えたほうがいいのではないか.

5章
言語の獲得にミラーニューロンが役割を果たしているという仮説がある.これは,50年以上前に流行った"the motor theory of speech perception"という理論と深い関係がある.1980年代にはmotor theoryは否定されたにも関わらず,2000年代に復活.しかし,発話の理解に運動機能は必要ないことは証明されている.

6章
ミラーニューロン仮説の背後には「身体化された認知(embodied cognition)」という,流行のアイディアがある.心理学の流れを振り返ると,まず行動主義があり,それに対するアンチテーゼとして,「計算論的な心の理論」(あるいは「情報処理」モデル)が出てくる."embodied cognition"の考え方が出てきたのは,素朴な「情報処理モデル」が前提とする,脳が感覚入力→高次の情報処理→運動出力という3段階の構造になっているというモデルに合わない事実が明らかになってきたからだった.そのような3段階の構造は,"classical sandwich conception of the mind"として,悪役に仕立てられた.しかし,著者に言わせれば,「身体化された認知」は,単に抽象的な概念が「感覚」や「運動」と切り離せないことを明らかにしただけで,本質的に「情報処理モデル」と対立するものではない.

7章
ミラーニューロンが「理解のメカニズムである」という説が怪しいとすると,本当の「理解」はどこで起こっているのか.ミラーニューロン理論より良いモデルは作れるか.著者のよりどころとなるのは,脳が持つ階層的な構造と,「”なに”経路」と「”どうやって”経路」の2経路に分けて脳が計算タスクを二つに分けて処理している,という事実である.そこから,著者が"hybrid, hierarchical model of conceptual representation"と呼ぶ情報処理の機構を提示する.

8章
ミラーニューロンは本当は何をしているのか.主流のミラーニューロン理論によると,ミラーニューロンは模倣(イミテーション)を可能にし,模倣は相手の心を理解する(=「心の理論」)ことの第一歩だとされる.しかし,著者の意見では,それは論理的誤りである.イミテーションは意外と難しい.ミラーニューロンをもつマカクザルは実は模倣しない.つまり,ミラーニューロンだけではイミテーションできない.Cecilia Heyesという心理学者の説では,ミラーニューロンの持つ性質は,純粋な連合学習によってつくられる.つまり,自分の行動とその視覚との結びつけで形成されるというのだ.著者の解釈も「古典的な条件づけ」というもの.また,パルマの実験では,ミラーニューロンの中には実はミラーしていないニューロンもあった.むしろ「観察した行動」に応じた「自分の行動」をするようなニューロンの活動も見られた.初期の段階で,それらの「鏡になってない」ミラーニューロンにはじめから注目していたら,違う理論が構築されてきたんじゃないか,と著者は指摘する.

9章
自閉症ミラーニューロンを結びつけた「壊れた鏡」理論は,今では否定的な研究者も多い.著者の考えでは,自閉症は何かの欠如ではなく,何かの過剰によって引き起こされると考えたほうが良い.

10章
ミラーニューロンの活動が「行動の理解」に他ならないとする理論は,説明力をもたない.パルマ大学のメンバーを始め,多くの研究者がミラーニューロンalternativeな理論を作っている.つまり,ミラーニューロンから「理解」の機能を除外した見方が増えてきている.一例として,ミラーニューロンの役割はpredictionに関わるのではないか,などと考えられている.

理論的流行は振り子のように振れている.計算論的な理論から,身体化された脳へ.
振り子が振れること自体は肯定的にとらえるべきだ,と著者は言う.今後の見通しを以下のように述べている.

I predict that mirror neurons will eventually be fully incorporated into a broad class of sensorimotor cells that participate in controlling action using a variety of sensory inputs and through a hierarchy of circuits.

いろいろなことが分かってくるにつれ,ミラーニューロンは大きな理論の一部に収まり,やがて,ミラーニューロンの特別扱いは終わるのではないか,ということなのだろう.そして,いまの脳科学の段階では,脳の中にどんなに驚くべき細胞が見つかったとしても,それは大きな機構の一部の「影」にすぎなくて,そうやすやすと細胞生物学におけるDNAのような「機構の核心部」に突き当たることはないのだろうと思う.

読書メモ:The Undoing Project (by Michael Lewis)

前から、ダニエル・カーネマンのことが気になっていた。

それは、おもに『ファスト&スロー』の著者としてだった。『ファスト&スロー』は2011年に出た本だが、当時印象的だったのは、これを読んだ人が、皆得意げに「システム1」だとか「○○バイアス」だとかいう、独特な言い回しを使い始めたことだった。

このたび文庫版で読んでみて、周りの人たちが熱狂していたのも納得できた。カーネマンはこの本で、人間の心がいかに多くの偏見やバイアスによって誤った判断をしがちかを示している。人々の判断や意思決定は合理的ではなく、その間違え方には傾向と理由がある。そうした人の心の性質を踏まえて、よりよい意思決定をするにはどうすればよいか。そこまで踏み込んでいるので、たんに面白いだけはなく、とても実用的な本だと感じた。

この本に出てくる多くの研究はカーネマン自身の手によるものだが、もちろんすべてを彼一人で行ったわけではない。とくに、ある人物の名前が頻出する。同じくイスラエル出身の心理学者、エイモス・トヴェルスキ―だ。カーネマンは、主要な研究のほとんどをトヴェルスキーの共同で行っており、2002年のノーベル経済学賞も、もしトヴェルスキ―が早くして亡くなっていなかったら、二人で共同受賞しただろうと言われている。

カーネマンは著書で何かにつけ「エイモスは…と言った」だとか「エイモスと私は…してみた」とか書いている。科学の歴史には共同研究がつきもの(代表例はワトソン&クリック)だとはいっても、カーネマンとトヴェルスキ―の親密さには、ちょっと尋常ならざるものを感じる。

彼らの共同研究は、どのようなものだったのか。二人は、いかにして心理学や経済学の革命をもたらすほどの業績を生み出すことができたのか。

 

"The Undoing Project"は、その経緯を克明に描いている。

The Undoing Project: A Friendship That Changed Our Minds

The Undoing Project: A Friendship That Changed Our Minds

 

著者は、映画『マネー・ボール』や『マネー・ショート』(原題"The Big Short")の原作者として知られるMichael Lewis氏。『マネー・ボール』は、メジャーリーグの弱小チームが、勘や経験ではなくデータに基づいたスカウトの仕組みを導入して強くなるまでを描いたノンフィクションだが、Lewis氏は、その後「マネーボール的な考え方」の背後にカーネマンらの業績があることを知ったという。それをきっかけにカーネマンに出会い、やがて彼のトヴェルスキ―との関係に興味をもつ。そして、二人の物語を書くことにしたというのが、本書執筆の経緯だそうだ。

それぞれの生い立ちから、二人の出会い、共同研究の日々、そしてトヴェルスキ―病死による別れまでを、多くの人の証言をもとにして描いている。ストーリーテリングは流石で、最初から最後までひきこまれた。

***

エイモス・トヴェルスキ―という人物の印象は強烈だ。カーネマンより3歳年下だが、イニシアチブをとっていたのは常に彼だった。とにかく大胆不敵な性格で、「手紙は読まずに捨てる」「やりたいことしかやらない」タイプ。それでいて、みんなから好かれていたという(この人物像で自分の脳裏に浮かんだのはリチャード・ファインマンだった)。兵役時には第一線で奮闘するようなフィジカルの強さも持っていたし、研究では論敵を徹底的にやっつけるような負けん気の持ち主だった。そして何より、頭がよかった。「トヴェルスキ―の賢さにどれくらい早く気付けるかが、その人の知能の高さを示す」と言った同僚の言葉が紹介されている。

一方のカーネマンは、どちらかというと疑心暗鬼で、気難しい性格だった。彼のことを「ウディ・アレンみたいな人、ただし、ユーモアはない」と表現した同僚がいたそうだ。しかし、直観力にすぐれていて、他人の理論の穴に気づいたり、核心をつく質問をする能力に長けていた。

まさに陰と陽で、真逆の二人。誰も彼らが一緒に何かをするとは予想もしていなかった。それでも、ある日を境に二人は共同研究をはじめ、お互いを補完する関係性になっていく。多くの場合、研究の種となるアイディアをカーネマンが出し、それをトヴェルスキ―が持ち前の明晰さで分析する。二人で実験を設計し、出てきた結果をもとに一緒に論文を書く。二人は研究室にこもると何時間も出てこなかったそうで、部屋からは始終大きな笑い声が聞こえてきたという。カーネマンが「もうアイディアが枯渇した」と嘆くと、トヴェルスキ―は「ダニーは誰よりもアイディアをもっているよ」と言って笑い飛ばす。"We were sharing a mind."(p.182)とカーネマンが振り返るような、とても濃密なコミュニケーションがそこには生まれていた。

前半部の二人の関係がすごく幸せそうなだけに、後半で二人がすれ違い始めるのが切なかった。著者はその原因を、カーネマンのトヴェルスキーに対する気おくれの感情に帰している。トヴェルスキ―だけが賞をもらったり、教授職のポストを打診されたりすることが重なるなかで、彼はトヴェルスキ―から距離をおく決断をする。

しかし、その矢先の余命宣告…。

本書のラストは、トヴィルスキー亡きあと、とある場面でのカーネマンの心理描写で締められている。そこに、タイトルの"Undoing Project"にちなんだ仕掛けがあって、著者の狙いどおり、思わず涙腺が緩んでしまった。

***

著者のカーネマンへのまなざしは始終温かいのを感じた。自分を信じて物事をスパスパと切っていくトヴェルスキ―と対照的に、カーネマンは自分自身への疑いの目を向け続ける。自分とは違う見解に出会ったとき、トヴェルスキ―なら闘いを挑むところを、カーネマンは"What might that be true of?"と問うのを常としていた。この"What might that be true of?"が、著者が本書で何度も繰り返すキーセンテンスの一つだ。つまり、「どんな前提に立つとそれは真とみなせるのか」。カーネマンのこのような態度が、人間の心の本性をつかむことを可能にしたのだろうと思わされる。

カーネマンたちの業績は、今では、心理学や経済学を超えてあらゆる分野に影響を与えている。そんなパラダイムチェンジングな学術成果が、一人の天才の脳からでもなく、ゆるくつながった研究者集団からでもなく、「緊密に連結した二つの脳」から生み出されたという事実。何かとても良いことを知れたような気分になっている。

 

 

聴講メモ:松葉舎 開校記念イベント

今日はこの会に参加してきた。

江本伸悟さんが今年から立ち上げた私塾・松葉舎(しょうようしゃ)の、開校記念イベント。江本さんの10年来の学友である森田真生さんなど、ゆかりの人々も集まって、4時間の講演会が行われた。

まずは、江本さんによる塾設立の趣旨説明。続いて、江本さん本人と、塾設立以前から江本さんから学んでいる2人の塾生の方によるプレゼン。最後に、森田真生さんのゲストトークで締められた。

江本さんは「サンゴ礁に心は宿るか?」という話をされた。一見、突拍子もない問いだが、最先端の生命科学脳科学の知の断片をつないでいくと、だんだんとそれが意味をなす問いに変わっていく。粗削りで試行錯誤感のあるプレゼンだったが、松葉舎が何をするところなのかがよく伝わってきた。心や生命とはこういうもの「だろう」という常識や予断を疑うこと。いろいろな学問分野に学び、自分なりの世界観を組み上げていくこと。そしてそれを仲間に伝え、フィードバックを通して鍛錬すること。

森田さんは、世界と日本の大学制度の歴史を総括し、江本さんや森田さんら自身がいる学問的状況を俯瞰しつつ、江本さんの私塾の意義を位置づけるという、壮大なトークをされた。単に大学の歴史を振り返るだけでなく、Reviel Netz著の“Barbed Wire: An Ecology of Modernity”を手引きに、世界史を「空間の接続・切断」による権力のダイナミクスで切り取り、そのなかに大学制度と学問のあり方の変遷を論じるという、こう書いただけでは何のことかわからないけれども、とにかく圧巻の、どこでも聞いたことのないような「知の歴史」が語られた。

***

ここしばらく、「何が人を学問に駆り立てるのか」ということを考えている。(この疑問の別バージョンは「人は何を求めて本を読むのか」。)

江本さんと森田さんの話を聞いているあいだ中、そのことを考えていた。二人とも、大学を離れて学問をすることを選んだ。自分のしたい学問をするのに、大学を離れたほうがベターだとの判断からだ(ちなみに、二人に接したことがある人ならわかるように、彼らが在野を選んだのは「大学でやっていく自信がないから」という理由からでは決してない)。そうまでして求める「理想」はなんなのか? 学問的モチベーションの核は? それを見定めることができないかと思いながら、4時間のトークを過ごしていた。

それは、自分自身、その答えを欲しているからだと思う。現代は「一つの学問的モチベーションをもって、それに突き進む」ということが難しい時代だと思う。夏目漱石も、バートランド・ラッセルも、イヌマエル・カントも、彼らの学問には「目的」があるように見える。確固たる倫理観というかモラルがあって、それを不動の指針として、人生をかけて探究したし、同時代人と切磋琢磨したように見える。しかし、今はどうか。普遍的な学問的ゴールというものはあるか。真理は相対的であるだけでなく、知を志す理由・目的に関しても「人それぞれ」になっているのではないだろうか。でも、もし現代においても、「私塾」が成立して、皆が同じ「何か」を目指すということが成立するとするなら、その「何か」に答えがあるのではないか……。

でも、帰りの電車のなかで、違う、と思った。森田さんも江本さんも、「何が自分を駆り立てるのか」を言語化などしないままに、すでに駆動されている。問いをもってしまっている。動因を持つべき理由を探してからしか探究を始められない人には、私塾での本気の学びは向かないかもしれない。

 

 

 

 

 

再読メモ:日本の難点(宮台真司 著)

 

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

 

ふと思い立って、8年ぶりに読み直したこの本。

社会学者の宮台真司氏が、経済・政治・教育・就職・家族など日本の抱えるあらゆるジャンルの問題について、社会学の抽象的概念も活用しながら、切れ味よく論じている。最近、宮台さんがコメンテータとして出演するTBSラジオの番組を聞くようになったこともあって、「そういえば宮台さんの本を読んだことがあったな」と思い出し、実家から持ち帰って再読した。

この本が書かれた2009年初頭は、まだリーマンショックの記憶が生々しい時代。日本は民主党政権が誕生する直前。そして、アメリカではまさにオバマ政権が始まったばかりの時期。なので、「これからアメリカは良くなるだろうし、世界もよくなるかもしれない」という、今から思うとやや楽観的な予測も見られる。それでも、大筋では、今ラジオで宮台さんが語っていることとこの本の主張は変わっていないと感じた。むしろ、3.11や昨年の集団的自衛権の議論など、その後に起こったことを見たあとで読むことで、初読時よりむしろ理解しやすくなっていた。

 

宮台真司さんの書くものや、ラジオでの発言には、いつも軽い動揺を覚える。他の人からは受けることのない「感銘」のようなものがある。以下、その感覚について、言葉にしておきたいと思う。

宮台さんは普通の学者と違っている。社会全体を「理論」で掴み取るという、社会学者として稀有な力量の持ち主だからということもあると思うが、それだけではない。自分にとって宮台さんが唯一無二なのは、「学問的に突き詰めた分析」と「年配者からの説教的な発言」(本当は単なる説教ではないのだけど最初はそう聞こえる)を、両者の矛盾をきたさずに同時に発信しているからだ。

あるニュース(犯罪とか、不祥事とか、いじめとか)に対するリアクションとしては、「最近の○○はだめだ」などと誰かのモラルを責めるものと、「環境・システムの問題だ」などと原因を何らかの仕組みに求めるものの2種類がある。後者のほうが一般には知的だと思われていて、じっさい多くの学者とよばれる人たちは後者のタイプの発言をすることが多いように思う。

しかし宮台さんは、「ヘタレ」「浅ましい人間」「感情が劣化した人間」などという言葉遣いを連発する。とくに「恋愛やセックスに消極的になっている最近の若者」に対する、「君それじゃダメだよ」という目線の発言が多い。

このような物言いが自分に動揺をもたらすのは、言うまでもなく自分がその「ヘタレ」の類型に当てはまるからだ。『日本の難点』で言及される、「浅ましい印象を与える若者」とは、たとえば、「自分の人格の恒常性を保つべく――自分カワイさから――コミュニケーションがなされる印象」を与えるような若者だとされる。なぜそういう若者が量産されるかと言えば、この本に書いてあることを自分なりに意訳すれば、「郊外化」以前のご近所づきあいや、体育会などで経験するはずの「濃密なコミュニケーション」を経験しない若者が増えたから、ということになる。

大学生のころ、当時受講していたゼミの先生に食事に誘ってもらい、「君はこれからはもっと人とコミュニケーションをとらないといけないよ」と諭されたことがある。そのような機会がもっと頻繁にあればまた違った思うし、その一回で自ら奮起すべきだったとも思うが、もはやそんな本質的な忠告をしてくれる年齢ではなくなってしまった身としては、宮台さんの言っていることが身に染みてわかる。

さて、若者をヘタレ呼ばわりしたら、ふつうは「ほっておいてほしい」と返されるのではないだろうか。「あなたの価値基準では自分はヘタレかもしれないが、その価値基準を押し付けないでほしい」と。ふつうはこう言われたら、理屈では反論できない。だから、少しでも理知的であろうとする人は、「○○できない若者は悪くない、悪いのはシステムであり社会の構造だ」というタイプの発言を選ぶことになるのだと思う。でも、『日本の難点』を読めばわかるように、宮台さんは価値が相対的であることなど百も承知で言っている。ポストモダンという時代性を、最先端の社会学理論を熟知したうえで、正確に把捉しちえる。そうして、なぜ「浅ましい人間」を減らさなければならないかに理論的な根拠を用意したうえで、「説教」的な発言をしている。

しかし、心の内ではこれは皆わかっていることではないかと思う。つまり、ある社会問題が「システム」だけではなく、自分自身の「構え」にも問題があるのではないかということ。自分や周りの人が、もう少しモラルを内面化した、感情豊かな人間、要するに「器の大きな人間」であれば、もうちょっと社会が良くなるのではないかと。これは、インドやフィリピンのような国に行くと強烈に味わうことができる。そうした国では、すばらしいホスピタリティで迎えてくれる人もいる反面、日本ではありえないような「浅ましい!」人に遭遇することがある。こういう人々をメンバーとしている社会は、ものすごく大変だろうなと思ってしまう。逆に、日本以外の先進国に行ったときに、「浅ましさ」と逆ベクトルの人々に出会って恥じ入る思いをすることがある。

もちろん「人々のモラルを高めてよい社会を作ろう」というような単純な話ではない。そういう安易な発言は炎上して終わるのがオチだ。「モラルとは何か」「社会とは何か」について考え抜いたうえでないと、宮台さんのような発言はできない。だから、多くの知的さを目指す会話のなかでは、そうしたものはないことにされる。でも実際にはある。それを正面切って語れる宮台さんに――ときには少々メンタルを削られたとしても――これからも傾聴したい。

 

今年読んだ本で振り返る2016年

f:id:rmaruy:20161231090521j:plain

大晦日。ぼっーとしていると年が明けてしまうので、その前に、今年1年を振り返っておきたい。

たとえば10年後の自分は、2016年をどんな年として思い出すかと考えると、「トランプが大統領に決まった年」になりそうだ。案外、それに尽きているかも…。

でも、せっかくなのでもうちょっと考えてみる。自分の場合、仕事をしている時間以外は、家でおしゃべりをしているか本を読んでいるかの生活なので、読んだ本を手掛かりに考えるしかない。改めてリストアップしてみると、今年も面白い本がたくさん読んだなと思う。

それらを思い出しながら、2016年を振り返ってみたい。

 

*以下では、今年出た本で、私が読んだものを紹介しています。そのうち、このブログで取り上げたものはリンクを張っています。

 

今年読んだ本で2016年を振り返る

技術と科学のトレンド

まずは、技術と科学の話題から。技術的トレンドとしては、今年は「フィンテック」「VR」「ゲノム編集」がキーワードとして出てきた。どれもわかりやすく「~の衝撃」というタイトルの本が出た(『FinTechの衝撃』(城田 真琴) 、『VRビジネスの衝撃』(新 清士)、『ゲノム編集の衝撃』(NHK「ゲノム編集」取材班))。

しかし、やはり人工知能脳科学の躍進が喧伝された一年だったと思う。ディープラーニングを中心とした技術の解説書は理工書の売上リストのトップを占め続けていたし、「人工知能とは何か」という切り口の概説書も多く出た。人工知能ブームの本質を包括的に解説していた本としては、人工知能が変える仕事の未来』(野村直之)が一番参考になった。『不屈の棋士(大川慎太郎、読書メモ)は、人工知能がいち早く人間のプロフェッションに食い込んできた将棋界の困惑を鮮烈に描いていて、衝撃的だった。人工知能脳科学との関連で語られることも多く、代表例は甘利俊一先生の『脳・心・人工知能読書メモ)。

脳科学単体での新しい動きを知れる本としては、いずれも医者によって書かれた『脳はいかに治癒をもたらすか』(ノーマン・ドイジ、読書メモ)と『〈わたし〉は脳に操られているのか』(エリエザー・スタンバーグ読書メモ)が面白かった。

人文系からの応答

人工知能脳科学は、他の科学・技術と大きく違う点がある。それは、単に生活を便利にしたり病気を治したりするだけでなく、「心」「意識」「責任」「道徳」など、従来科学で扱われてこなかった領域に食い込んでいくことだ。そこで人文学の出番となる。『脳がわかれば心がわかるか』山本貴光吉川浩満読書メモ)は、どんなに科学が「心」についての知識を増やしても人文学で考えるべき領域が残ることを、他書にない平易さで説明している。『情報社会の哲学』大黒岳彦読書メモ)、『大人のためのメディア論講義』石田英敬読書メモ)は、メディア論の視点から、人工知能を考察している。人工知能を、「人に似た機械」というよりも「メディア」とみなす観点が斬新だった。『時間と自由意志』(青山拓央)は、脳科学が侵犯しつつある「自由意志」について、哲学がどこまでたどり着いているかを示してくれる。この本などを読むと、科学者のナイーブな議論には戻れなくなると思う。最後に、脳科学人工知能で扱われる「心」の哲学的立場を整理した本として、私が編集で関わった『物質と意識 原書第3版』(ポール・チャーチランド)も僭越ながら紹介しておきたい。

今年前半には人文学自体の存在意義が問われる流れもあった。国立大学の文系学部縮小の議論に端を発して書かれた『「文系学部廃止」の衝撃』吉見俊哉読書メモ)では、人文学がなぜ「役に立つ」かが述べられていて、目から鱗が落ちた。また、『学術書の編集者』(橘宗吾、読書メモ)でも、文系の学問の意義が、学術書の意義と絡めて論じられていた。大学の学問を「護る」という話になりがちな空気に対して、「大学の外でも学問はできるぜ!」ということを謳った『これからのエリックホッファーのために』(荒木優太)は爽快だった。

日本の行く末と働き方

人工知能ブームは、今の日本の社会や経済とも強く関係している。今年、テレビやラジオで何度も聞いた「人口減少社会」「一億総活躍」「働き方改革」という言葉。要するに、人口が減っていて、経済が縮小していて、それでいて労働力が不足していて、日本の将来が危うい、という話だ。しかし『人口と日本経済』(吉本洋)によると、人口の減少は必ずしも経済の縮小につながらない。重要なのは、労働生産性を高めて、イノベーションを起こすこと。そういう文脈でも期待されているのが人工知能なのだ。人工知能と経済の未来』井上智洋、読書メモ)は、そんな期待と、逆に「職を奪うのではないか」という不安とを、真面目に考えた一冊。今後20年以上日本で生きているつもりの人なら、読んでおいて損はない本だと思う。

社会と仕事というテーマでは、ブラック労働について新しい視点を与えてくれたデスマーチはなぜなくならないのか』(宮地弘子、読書メモ)、近年話題に出すのが厄介になっている感のある「結婚と家族」について、その厄介さの理由が明かしてくれた『結婚と家族のこれから』(筒井淳也)はおすすめ。

一個人としてどう生きるか

技術的トレンドや社会的問題についての大枠をつかんだうえで、一個人としてどう生きるか。また、今年読んだ数少ない小説のうち、『コンビニ人間』村田沙耶香読書メモ)とリップヴァンウィンクルの花嫁』岩井俊二読書メモ)の二冊は、どちらも社会のシステムの違和感を人一倍敏感に感じつつ、それでもそれに適応して生きていく主人公の内面が描かれた作品だった。学問との距離感の取り方についてヒントを与えてくれたのは、『古市くん、社会学を学び直しなさい‼』古市憲寿読書メモ)だった。また"Algorithm to Live By"(Brian Christian,Tom Griffiths、読書メモ)は、コンピュータサイエンスの概念を、日々の生活に当てはめてみせる楽しい本だったが、これからはこういう頭の使い方が大事かも、と思わされた。

科学の純粋な面白さ

科学には、ビジネス的な価値を生むとか、生きづらさを解消するとか、ライフハックとか、そういう「役に立つ」要素が大事なのはもちろんだが、そういう功利とはまったく独立に、純粋な好奇心を動力源として進んでいく科学ももちろんある。たくさんはよめなかったが、『文化進化論』読書メモ)、"QBism"(Hans Christian von Baeyer)、『生命・エネルギー・進化』(ニック・レーン、読書メモ)の3冊は、どれもあっと驚く新アプローチや新説が紹介されていてワクワクした。

 

今年の2冊!

最後に、今年もっとも感銘を受けた2冊の本を発表します。

1冊目は、『精霊の箱』(川添愛)。目先の流行に踊らされすぎず、自分の選んだ学問に向き合うことの尊さを教えてくれた。

2冊目は、"Patient H.M."(Luke Dittrich)。脳科学の歴史のなかのスキャンダルと言ってもよい顛末を緻密に記述した本で、インパクトは強かった。科学者の好奇心を手放しに価値あるものとしてはいけないという戒めとして、来年以降の科学・技術を見ていくうえで重要文献となる一冊だと思う。

 


読書メモ:漱石のこころ(赤木昭夫 著)

 

漱石のこころ――その哲学と文学 (岩波新書)
 

夏目漱石ほど、作品が読まれた日本人の小説家はいない。漱石の作品が好きな人は多いが、その理由は人それぞれだと思う。真に迫る心理描写でハラハラしたい、行間に感じられる明治のゆったりとした雰囲気に浸りたい、一流の文体やユーモアを味わいたい、などだろうか。読み方がいろいろあるということが、むしろ、今でも読まれ続けている理由なのかもしれない。以前読んだ『漱石と三人の読者』(石原千秋著、講談社現代新書)という本のなかで、漱石は複数の層の読者を想定して異なるメッセージを込めていた、ということが書かれていて、そうなのかと驚いた記憶がある。

本書も、また新しい漱石の読み方を提示する。著者は、大胆にも、これまで百年間は漱石は正しく読まれてこなかった、という。文芸評論の歴史に対するなんとも挑戦的な態度だ。そこまで言えるものなのかという気もするが、ともかくそういう気概で書かれている。

著者が漱石の誤った読み方の筆頭にあげるのが、漱石の文学を「未完の『明暗』へと至る「則天去私」の道程だったと意義づけ」る解釈だ(p.212)。則天去私は漱石の日記に登場する言葉だが、彼の死後直後まもない時期にはとくに、漱石の文学は則天去私、つまり我を離れる境地を目指したものだった、という解釈が広まったらしい(中学の部活の顧問が夏目漱石に傾倒されており、その先生が卒業アルバムの「卒業生へのメッセージ」の欄に書いたのが「則天去私」の四字だったのを思い出した)。

しかし著者によれば、「則天去私」は漱石が作文のティップスとして創作した概念にすぎないのであって、彼の文学の到達点でもなんでもない。漱石が作品でやろうとしていたのは、明治という時代を文学で捉えること、そしてその時代の暗部を文学を通して明らかにすることだった。そうした論を、主に『坊っちゃん』と『こころ』を取り上げて展開していく。特徴的なのは、当時の経済状況(空前の好景気だった)や、政治的な状況(固定したメンバーによる腐敗が進んでいた)について、経済指標の数値や出来事の年月日を挙げて考察している点で、そういう細かいデータをもとに「漱石はこういう時代状況のなかで、こう考えたに違いない」ということを読み解いていく。考えてみれば、漱石は同時代を生きている人々に向けて作品を発信していたのだから、百年後の僕らにはわからないメッセージも含まれているはずだ。だから、こういう作業が必要なのも頷ける。

けれど僕にとっての本書の一番の見どころは、何といっても第3章:「ロンドンでの構想」だった。ここでは1章を割いて、漱石のイギリス留学のことが扱われている。小説を書き始める前に訪れた異国の地で、彼は何を考えたか。まず、知らなかったのが、漱石がデビュー作を書く以前に、文学研究者として、自分なりの「文学論」を構築していた、ということだった。それを大成できたのが、本書によればロンドン滞在時だった。

カギとなる人物として描かれているのが、ロンドンで漱石と交流があった池田菊苗という化学者だ。菊苗との交流の様子を示す資料の検証を通して、著者はある仮説を導く。それは、物質の性質を決めるエッセンスとして分子や原子というものの存在を想定する(まだ原子論は証明されていなかった)物理や化学に感化され、漱石は文学のエッセンスについての自身の理論を作ったのではないか、という仮説だ。 池田菊苗がうま味成分であるグルタミン酸ナトリウムの発見者であることにかけて、

菊苗の発明が「味の素」だから、たとえるならば、漱石は文学の素を発明したことになる。(p.80)

などと、ちょっとうまいことを言っている。

文学の素、つまり、漱石が求めていた「文学とは何なのか」に対する答えを、漱石社会学や心理学の勉強を通して得ることができ、それがのちの、著者の言葉で言えば「明治の時代精神」を捉えた作品を生み出すバックボーンになった。

どこまでこの読みに信憑性があるかはわからない。でも、この池田菊苗と漱石の文学論に関する著者の仮説には、鳥肌が立った。こういう頭の使い方、つまり異なる分野が、歴史的にどういう交流を経て新しい理論なり概念を生み出してきたかをたどるアプローチを、著者は「学説史」(history of ideas)とよぶ。文学と科学を行き来できる碩学たちが跋扈していた明治時代は、まさに「学説史」が面白い時代なのだろうし、なかでも漱石は、恰好の題材なのかもしれない。

本書を読めば、とくに科学に親しみのある理系の人にとって、夏目漱石という人の重要度が高まるに違いない。